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領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

1.〈わたし〉が会社を辞めたら/〈ぼく〉になる前に

 突然ですがこの度会社を辞めることになりました。

 いや突然ではない。前から辞めるつもりでいた。
 仕事が嫌になったわけじゃない。身体が壊れるような激務でもなかった。

 でも、あるとき不意に、

「このままこの仕事だけを続けて生きていてよいのだろうか?」
「こんなふうに一生を終えるのだろうか?」

 そういう疑問がわいてきてひどく怖くなってしまった。

 なんかやりたいことはなかっただろうかと思って、本屋で目に入ったのが——。

 世界各国グルメのレシピ本だった。
 見て「これだ!」と思った。

 べつに食通ってわけでもなくて、多分、そのときたまたま腹が減っていただけだったのだと思う。でも、きっかけがなんとなくでも、自分の気持ちに忠実に生きてみてもいいと思えた。

 それに、自分で世界各国の料理を作って食う——とても楽しそうだったのだ。

 手始めにイギリス料理を作ることにした。
 イギリス料理は一般にいと言われている。
 ところが、イギリス料理のレシピを見ると、言われているよりもずっとうまそうに見える。
 そこでわたしはイギリス料理が本当にまずいのか検証することをテーマにした。
 自分でテーマを立てておいてなんだが、これにはとても興味をかれた。

 今回作るのはコーンウォールの伝統料理、パスティだ。
 小麦粉を練った円形の生地に具を乗せて半分に折り、フチを閉じて包んだ半円形のパイである。焼き上げる前の見た目は巨大なに似ている。
 具は伝統的には牛肉、タマネギ、ジャガイモ、それからスウェーデンカブ。
 スウェーデンカブがどういうものかよくわからなかったのでとりあえず代わりにカブを使ってみたものの、どうも違う。
 日本のカブは、日本の食材っぽさが強すぎた。
 やはりここはレシピに忠実にスウェーデンカブを使う必要があるだろう。
 ところがこのスウェーデンカブ、もちろんスーパーには売っていない。
 まさかスウェーデンまで行かなければいけないか? いやイギリスにはあるのか? でもどっちにしても海外か……と思っていたが、なんと国内で手に入る。

 スウェーデンカブ、鎌倉で作られているのだ。
 鎌倉では変わった野菜が作られている。
 鎌倉野菜と呼ばれ、レストランなどで重宝されているらしい。

 そういうわけで、わたしは鎌倉に向かっている。

 スウェーデンカブは、カブという名前だがカブとは別種らしい。味もカブとは異なり、カボチャに似ているとかジャガイモに似ているとか言われている。
 しかし本当にジャガイモと同じならジャガイモといっしょに具として使う必要はない。
 となると、スウェーデンカブでなければいけない独特の味わいがあると考えたほうがよいだろう。

 やはり実際に食べてみなければわからない。
 はたしてどんな味がするのだろう。
 とても楽しみだ。


 峠がみえてきた。

 この峠をこえれば、目的地はもうすぐそこだ。
 このまま無事に目的地にたどりつけたなら、ぼく、トーマはトゥレーディ族のトーマ・トゥレーディアとして認められる。

 トゥレーディ族をはじめとした牧畜民の一族の子供は、十四才をむかえるころにある試練を受ける。十四才になれば大人としてあつかわれるし、大人になれば一族の名を背負うことになる。
 一人前の牧人にふさわしい力があるか、それを確かるための試練だ。

 牧人は、マウシカやラクたち家畜を安全に放牧地へと連れてゆくのを仕事とする。
 作物を育てるのに向いた平地は、人が食べるための麦を育てるために使う。
 家畜は人間が食べられないような草花でもエサにできるし、そういう草花は山や森のような作物を育てるのに向かない土地にも生える。

 山や森は、人にとっても家畜にとっても安全じゃないところが多い。

 森にはヤークやオオヤマイヌみたいな家畜をおそうけものがいる。
 山は道がけわしくて、崖からすべり落ちる危険と隣り合わせだ。
 通りすぎた危険を思い出し、手にした杖をぐっと握りしめる。
 杖でけものを追い払い、道が安全か確かめながら、家畜たちを導くのが牧人の役目だ。

 山や森を乗りこえても、もっと危ないところがある。
 それは、魔境だ。

 魔境は、あらゆる生き物をむしばむ幻素の毒にみちた場所だ。
 幻素にさらされても平気なのは、怪物だけ。
 人も動物も、幻素の毒が体にまわればやがて死ぬ。
 森や山よりも、ずっとおそろしい場所だ。

 牧人の放牧路の中には、魔境を通らなければ放牧地にたどりつけないところもある。
 少しの距離を通りぬけるだけなら、幻素の毒が体にまわるほどにはならない。
 魔境の浅いところなら、それほどおそろしい怪物が出ることもない。

 それでも魔境が危険なことには変わりない。
 家畜が怪物に襲われることも、幻素の毒に侵された家畜の気が狂うこともある。

 一人前の牧人は、怪物から家畜を守りながら、すみやかに魔境を通り抜ける力を持っていなければならない。

 さいわい、魔境はぶじに通りぬけられたし、けわしい山道も通りすぎた後だ。
 残りはなだらかなくだりの山道だけだから、試練もほとんど終わったようなもの。

 ものごころがつくころには、牧人の子だった。
 みんなと髪の色もひとみの色もちがっていた。ぼく一人が黒い髪に黒いひとみだった。それでもみんなはぼくを牧畜民の子としてあつかってくれた。
 生みの親も、生まれた場所もわからないけれど、ぼくにとっては育ててくれたトゥレーディ族が親で、ぼくの帰るべき場所で、これからも生きていく場所になる。
 この試練を終えれば。

 いよいよ一人前の牧人になる。


 トンネルを抜けようかというとき、電車が大きく揺れた。
 急ブレーキ、ではない。下から突き上げるような強い揺れ。
 地震だ。
 電車は緊急停車を行い、トンネルを出たところで止まった。

 轟音が響き、電車が激しく揺れる。
 強い衝撃が体を貫いて、気が付いたときに床に倒れていた。
 体がひどく痛む。焼けるように熱い。息苦しい。背中に何か乗っている。重い。
 だんだんと意識が薄れていく。


 峠に着いたところで、家畜たちを休ませる。
 見はらし台に立って、下をながめる。
 どこまでも大地が広がっている。
 そのところどころに、ぽつりぽつりと屋根が見える。
 人の住む町は、ちっぽけだ。
 大地の広大さを目の当たりにして、魔境をこえて高ぶっていた気持ちが落ちついていくのを感じる。

 人は、大地に生かされている。
 それを思い知らされた気がした。

 山道をくだろうとしたところで、家畜たちが急におびえだした。
 なんだろうと思った直後、足元がはげしくぐらついて、その場に倒れる。
 大地が、ゆれている。
 地面がうなり声をあげる。
 ゆれは強く、立ちあがることもできない。
 みしりという音が聞こえたと思ったときにはもう体が宙に投げだされていた。
 見だらし台の足場がくずれたのか。

 人は、大地に生かされている。
 だから大地はいつだって、いつでも人を殺せるのだ。

 背中を強く打ち、はげしい痛みにおそわれて、ぼくは意識を手放した。


 その日、関東地方を地震が襲った。

「——この地震により、トンネル出口付近の線路沿いの斜面が崩れ、緊急停車していた車両が土砂に押し潰される被害が発生しました。
 潰された車両内の乗客二十五人のうち十八人が重軽傷、五人が死亡しました。
 気象庁では引き続き余震による強い揺れに警戒を呼びかけており——」

 ニュースは淡々と事実だけを告げる。


「爺、誰か人を呼んできて! 人が倒れているわ!」

 うすぼんやりとした意識の中で、誰かが叫ぶ声がひどく遠くに感じられる。

「……! まだ息がある」

 誰かがの体に触れるのを感じたような気がした。
 はっきりしない視界に、人の顔のようなものが映る。

 お迎えが来たのかな、なんて思っていた。

「いいえ、心配しないで。あなたはきっと助かるわ」

 よくは見えなかったけれども、んだのだと思った。

 ふたたび意識が沈んでいく。

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