1.
領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

14. 帰る場所

 アムが落ち着くまで、ぼくは静かに彼女の側にいた。

 やがて、ゆっくりと口を開いた。

「……トーマに会えたら、この杖、返そうと思ってた」
「それは、アムが持ってて」

 受け取ることはできないと思った。
 それを受け取っても……ぼくはになるわけじゃない。
 牧人になるなら、もう一度牧人の試練を受け直さないといけない。

 それに——、

 ぼくは、牧人になりたいのだろうか。
 いや。

 ぼくはいったい、何になりたいのだろう。

 ——でも。

 牧人になるか、ならないか。
 今決めることができなくても、今ぼくがしなければいけないことは、はっきりしているし、はっきりとわかっている。

 ぼくは、リリーに恩返しがしたい。
 この世界でもう一度生きることができたのは、彼女のおかげなのだから。
 だから、リリーに恩を返すまでは、牧杖を受けとるわけにはいかない。

「いつか、ちゃんと答えを出すから。そのときまで、アムが持ってて」
「……わかった」

 アムはれたようにため息をつくと、

「しょうがないなあ、トーマは」

 なんて、笑うのだ。 
 ごめんね、アム。

「しょうがないから、待っててあげる」
「……ありがとう」

 空気が少し冷えてきたのを感じる。

「さ、じゃあそろそろお別れね。日が暮れる前に戻らないといけないでしょう?」
「アム」
「わたしは大丈夫。それに……また会ってくれるよね?」
「それは、もちろん」
「じゃあ、さようならじゃなくて、また今度、で」

 でもね、アム。
 きみはそんなにも寂しそうな顔をしてるじゃないか。

「どうしてトーマが泣きそうな顔になってるのよ」

 そんなふうに笑うけれど。
 だって、そんなにも寂しそうな顔で。
 微笑んでるけど、そんなにも寂しそうじゃないか。

「トーマ」

〈ぼく〉だって……〈ぼく〉だって、きみに……トゥレーディのみんなに……会いたかったんだ……。
 にも、にも。
 ぼくの目にたまったしずくを、アムがそっと指ですくう。
 そして、とてもやさしくて穏やかな声で、ぼくに言う。

「暗くなったら、帰れなくなっちゃうから、ね」
「……うん」

 そうして、ぼくらは森の外へと向かう。
 森から出る頃には、西の空が薄赤くにじんでいた。

「……うん。じゃあ、またね。アム」
「トーマも、またね」

 アムは山へ。
 ぼくは、街道沿いに。

 背を向けて、歩き出す。
 今のこのぼくの気持ちが〈ぼく〉のものなのか、〈わたし〉のものなのか、はっきりとわからないけれど、〈わたし〉が社会に疲れた大人でも、〈ぼく〉の気持ちがわからないほど冷たくもないつもりでいた。
 けれども、アムに再会するまで、〈わたし〉にとって〈ぼく〉の思い出はどこか他人事みたいだったのは、確かなのだ。
〈わたし〉が体験したことじゃないんだから。

 足音が遠ざかっていく。

 だから、ぼくの中にいる〈わたし〉が、今とても混乱しているのも、とてもよくわかることなんだ。だって、自分で体験してないのことなのに、まるで自分のことのようにつらいから。でも。

 自分のことなんだよ。 

〈わたし〉のぶんも、〈ぼく〉のぶんも。
 どっちも自分の感情なんだよ。

「あ……市場……行ってる時間なくなっちゃったな……」

 市場に行くような気分でもなかったけれど。
 明日にでも行けばいいだろう。

 ふと、これからどうするか、ちゃんと考えないといけないと思った。
 ぼくが何をしたいのか。
 何ができるのか。何をしなきゃいけないのか。
 その中で、ぼくが何をしていくのか。

 やがて、屋敷が見えてくる。

 屋敷が見えてきて、ぼくは思い出した。

 そうだった。
 これからのことより、この後のことを心配しないといけないんだった。

 屋敷の前に、人の影が見える。金の髪を夕日にきらめかせて、彼女が立っている。
 ああ、どんな顔をしてるかわかる。
 ぼくは言い訳の言葉を用意しながら、屋敷へと帰っていく。

「ただいま、リリー」
「随分長い散歩だったのね、トーマ。勝手に一人で出かけて——」

 お嬢様のやわらかな抗議の声を聞きながら。
 胸にすっと暖かいものが降りてくるのを感じながら。


 こってりと絞られた。
 ちゃんと爺には許可を取ったんだけどって言ったら、そういうことじゃないって怒られてしまった。

「わたしのいないところで勝手にあたらしいことをするの禁止なんだからね」

 そういってわざとらしく頬を膨らませていたけれど、つまりは半分くらいは怒ってるふりをしているだけなのだ。わたしは怒っているのだということをぼくにちょっと大げさに伝えるために。

「次にどこかに行くときは、そうするけれど……森にリリーを連れて行くわけにはいかないよ。だって、森は、危険だから」
「トーマが一人でいっても大丈夫なところなんでしょう?」
「ぼくは、そういうところで育ったから。それに、リリーを連れていったら、もし獣に襲われても自分の身を守るだけで手一杯になっちゃうよ。ぼくが一人前だったら、リリーを連れていけるけど、一人前じゃないから。ぼく一人じゃだめなんだ」

 そう説得すると、

「……わかった」

 渋々いて、納得してくれた。
 それにしても、きょうのお嬢様はちょっとご機嫌斜めだな。

「それより、トーマ。そっちの袋は? 何かいい香りがするけれど」
「ああ、これ。これは、森で、ええっと」

 森の話をしたら、リリーの好奇心が弾けたりしないかな。

「森で採ってきたのね? 大丈夫よ、もう森に行きたいなんてせがんだりしないわ」

 ためらうぼくに、リリーは苦笑する。
 でもあからさまにほっとしたら、「そんなにほっとしなくてもいいじゃない」ってむくれてしまった。ごめんごめん。

 気を取り直して、

「じゃあ、これ」

 袋の中を取り出す。
 リリーは身を乗り出して袋の中を覗き込もうとする。だからね、そんなに近づかないでっていつも言ってるでしょうが。

「これは……ルビーベリー? それから、ハーブ……かしら?」
「うん、それはマーセンス。ソーセージに入れたりするんだ」
「こんなに香りがいいのね」
「摘み立てはね」
「そっちは?」

 もう一つ袋があるのに気付いたらしい。

「その袋、なんだか変わった香りがしない?」
「こっちは、これ。キノコだよ」

 クロユリタケを見せる。
 袋から出すとちょっと香りが強すぎるから、袋の口を広げて、中を見せる。

「んっ……すごい……香りね……なんていうのかしら……この香り……」

 牧畜の民は、マウシカやラクの匂いの中で暮らしているから、たいていの匂いは気にならない。草や木とか、土とか、いろんな匂いがするし。
 でも、町で暮らしている人にとっては、ちょっと独特な香りらしい。

 クロユリタケの袋の口を閉じる。

「あっ……もうちょっと……」

 名残惜しそうに言うリリーの頬は、ほんのり上気しているように見える。いや、気のせい……かな……そうだと思いたい。
 でも、確かに、もうちょっと嗅いでいたいと思う匂いなのだ。なんの香りって言葉では説明しにくいんだけど。甘いような、苦いような、ばしいような……。

「もうおしまい。これ以上匂い嗅いでたら変になっちゃうでしょ」
「変に……なってもいいかも……」

 だめだ、もう変になってるよ。

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