冬至から一ヶ月。
この国の暦では、年の瀬を指す。
冬至からおよそ一ヶ月半でその年が終わって、春のきざしとともに新年を迎えることになる。
とはいえ年が明けて一、二ヶ月は肌寒い日が続くのだけど、とはいえ、花は蕾をつけ、虫たちが地面から這い出でる季節になる。
一年でもっとも寒い一ヶ月を過ごす中、ぼくはパン生地の試作を繰り返していた。
カブイモ、センジンをすりおろし、麻で濾してでんぷんを沈殿させられるか試してみた。カブイモ、でんぷんの沈殿を確認。センジン、でんぷんの沈殿はごくわずか。
カブイモからは多少でんぷんが採れることがわかった。しかし甘みでいえばセンジンのほうが強い。この差はたぶん繊維の強さによるのだと思う。センジンのほうはなかなか繊維が壊れないから、麻で濾してもうまくでんぷんを抽出できないのだろう。
カブイモからでんぷんが抽出できることがわかったら、次はヘラムギの粉を水で練って、でんぷんとたんぱく質とに分離できるか試してみた。
まず、小麦粉と同じ方法で試してみた。
小麦粉を水で練って、粘りが出るまで練って、練って、それからぬるま湯ででんぷんを洗い落とす。
ところが、これはできなかった。
コムギとは性質が異なっても、ヘラムギのたんぱく質はヘラムギグルテンとでも呼ぶべきものだと思っていた。実際、水で練り上げるとまとまることはまとまる。
けれども、いざでんぷんを洗い流そうとすると、練ったヘラムギ粉がどろどろに溶けてしまう。これではバニッジがふっくら焼き上がらないわけだ。
で、自棄になってカブイモと同じように麻で濾してみた。
……でんぷんが沈殿した。
繊維質が麻に残り、でんぷんだけが沈殿した。
たんぱく質はどこにいったのか。たぶん上澄みに溶けているのだと思う。
春雨の原料となるリョクトウは、でんぷん作物であると同時に、たんぱく質に富んだ豆類でもある。でんぷんを沈殿させた上澄みにはたんぱく質が溶け込んでいて、これを乳酸醗酵させた植物性の醗酵乳が中国にあるという話を聞いたことがある。
だからたんぱく質が上澄みに溶けていることはありえる。
さておき、ヘラムギから採れたでんぷんの量なのだけど……少ない。カブイモよりも少ない。
醗酵させないバニッジの生地を焼き上げたらボロボロと崩れてしまったのを思い出す。あれはどうして壊れたのか。ほとんど繊維質だったからだ。
そして、醗酵させるとどうしてちゃんと焼き上がるのか。
もちろん試してみた。醗酵した生地を水に溶かして、麻で濾す。
麻に繊維質はほとんど残らなかった。
答えは、醗酵によって繊維質が分解されて何かに変わった、である。
何に変わったのかはぼくにはわからない。
ただ、麻に残らない程度には細かくなった。甘みが出たわけではないから、より小さな繊維質に分解されたと考えるのが妥当な気がする。
試しに、濾して繊維を取り除いたバニッジの生地に、カブイモのでんぷんを加えて練って焼いてみた。
膨らまなかった。
膨らまなかったけれど、焼けることは焼けた。ぼろぼろに崩れることもなかった。それに、バニッジに比べるとやわらかい。
そういえば、大陸中南部にはバニッジに具を包んで食べる料理があるんだったか。
バニッジの生地では、具を包むには硬すぎる気がする。薄く焼いても、具を包んだら破れそうだ。
でも、この生地だとどうだろう。できそうな気がするな。
順調だったのはここまで。
そこから先の進展はなし。
どうやって膨らませたものか。
パンは作れていないけれど、使用人の食事の改善はできた。
ヘラムギの薄い生地は、いわゆるパスタ生地だといっていい。パスタほどコシがないのでちょっと違うのだけど、乾燥させると保存が効き、湯で戻して食べられる。
細く切って麺にしてもいいし、具を包んでもよい。
バニッジとポリッジに、ヌードルとダンプリングが加わることになる。
「というわけで、バニッジとポリッジ以外の主食を考えてみたんですけど、どうですか?」
これからクーシェルに試食してもらうところだ。
爺とナーサラはいない。ナーサラは今日は休暇で、爺は他の仕事がある。このところ爺はずっと忙しそうにしている。年の瀬でやることが多いのだろう。
クーシェルの前に置かれているのは、野菜の煮込みに平麺を入れたものと、加工肉と野菜を生地で包んで焼いたパイ。
「なるほどな」
本当はパイの具にはマッシュした野菜を使いたかったのだが、手間がかかるので煮込みの具を使った。想定されるシナリオは、残り物の煮込みの具を湯で戻した生地に包んで焼き上げる、という感じだ。生地を作り置きして保存しておく必要はあるけれど、ある程度日持ちするから一気に大量に作ってしまえばいい。しかも麺とパイ生地どちらにも使える。
クーシェルは、まず平麺から食べることにしたようだ。スプーンで麺の切れ端をすくい、口に含む。
長いとスプーンで食べるにはむずかしいので、短く切ってある。どちらかというとほうとうのような雰囲気だ。
「……悪くないな。味もいい。手間も、許容できる範囲に収まってるしな」
そう言って今度はパイを一口かじる。味を確かめるようにして咀嚼した後、クーシェルは「うむ」と頷く。
「よし、いいだろう。合格だ」
やった!
ここまでいろいろ失敗を重ねてきた。
材料を使いすぎ、調理に手間がかかりすぎ、時間がかかりすぎ……エトセトラ、エトセトラ。
ぼくは、おいしいものが食べたかっただけなんだ……。
でも、これで使用人の食事の献立に、麺とパイが加わる。
一歩前進だ。
ところで、今クーシェルは合格と言っていた。
合格したらどうなるんだろう。
何も考えてなかった。
「喜べ。今度からは、旦那様の料理も手伝わせてやる」
……また仕事増えたのでは?
「いや、お嬢様がな。早くお前の料理を食べさせろとうるさいんだよ」
「あ」
そうか、男爵の料理を作るということは、リリーの料理を作るということだ。
使用人のためでなく、屋敷の主人のために作る料理。
これからは関わっていくことになる。
どうしてこんなことに。
ぼくは今、頭を抱えている。
本当にお嬢様のために料理を作ることになった。
男爵家の食事を用意するという意味ではない。いや、男爵家の食事には違いないのだけど、単に男爵家の食事ということではなく、明確にお嬢様のための料理なのだ。
リリーの成人祝いの料理。
それを任されることになった。
クーシェルの手伝いではない。
ぼくが作ることになった。ぼくが、リリーの成人祝いにふさわしい料理を、自分で考えて作るのだ。
「どうしてこんなことに……」
「俺を恨むなよ。お嬢様たっての希望なんだからな」
言い出したのはリリーだった。
聞けばレイフリックは難色を示していたそうだが、男爵はまったく気にしていないどころかむしろリリーの好きにしたらいいとまで言っていたらしい。
止めろよ!
個人的にリリーに何か食事を振る舞うくらいならいい。
リリーの成人祝いの料理とはいえ、男爵家の食事。男爵もレイフリックも口にするのだ。しかも祝いの席の料理。
胃が痛くなってきた。
けれども、クーシェルはあっけらかんとした顔でこんなことを言う。
「使用人向けの料理じゃないんだ。材料費、手間、時間、なにも気にしないで作ったらいい。どうせ試してみたいことがたくさんあるんだろ? 好きにやったらいい」
試してみたいことは、そりゃあるけど。
「祝いの席の料理を実験台にしてもいいんでしょうか……」
「なあに、実験だってバレなきゃいいんだよ。旦那様、お嬢様のために創意工夫をこらしましたつっときゃわかんねえだろ」
「クーシェルさん本当に使用人ですか?」
忠誠心帰ってこい。
「何言ってんだ、どうせお嬢様はお前が何をしでかすか楽しみにしてるんだ。だからお前が好き勝手作ることは、お嬢様の望みを叶えることにもなる。逆に無難な料理でも作って出してみろ。どんなことになるか、想像できねえわけじゃねえだろ」
想像してみる。
……。
「わかりました、やりましょう!」
「よしきたその意気だ」
そういうわけで、ぼくはリリーの成人を祝う料理を作ることになったのだった。