「んんー——!!」
リリーは目を見開いて、声にならない声をあげる。
それから慌てたように、口をもぐもぐさせて咀嚼すると、やがて、こくんと白い喉が動くのが見えた。
手に持った串をまじまじと見つめてから、ぼくの方を向く。
いつもの十割増しに、目をきらきらとさせて。
「……おいしいっ!!」
その高揚ぶりに思わず苦笑いを浮かべるけれど、こんなに喜んでくれたなら、作ったかいがあった思う。
そうして、リリーは次の串を手に取ると、もう一度アヒルバトの肉を口にする。
今度はゆっくりと、一口ずつかじり、味を確かめるように食べる。
「……んっ……最初は甘酸っぱくて……でも、噛むと……すごく……肉の味……しっかりしてる……それに、身が……みずみずしいのに、ちゃんと引き締まってる……」
ぽつりぽつりと、その味を誰に言うでもなく呟くリリー。
その様子を見た男爵が、それならばと、アヒルバトの串に手を伸ばした。
「……ほう! なるほど。なるほどそうか」
一串食べ終えると、男爵はこちらを向き、
「うまい。よい歯ごたえがある。これはむねか? ももほど脂はのっておらぬが、この歯ごたえはももにも勝る、それから、確かな肉の味、そしてこの瑞々しさよ。むねをこのように焼き上げることができるとは。ソースの酸味が強いかと思えば、噛んだときにしみ出る味の力強さには、この酸味が強さがよく馴染む。なにより、この見た目だ。この赤さ。この、血肉を思わせる色よ。食べればわが肉を形作るのであろう、そのように感じさせるはっきりとした赤だ。白い食事にはない、命を食べているという実感がある。これが、赤い食事。いや、ともあれ、うまい。見事な料理である」
と、早口にまくし立てて、それから、何事もなかったように落ち着いた所作で口元を拭った。
ええ……。
「お、お褒めいただき恐縮です」
ぼくはちょっと引きつつも、男爵になんとかそう返す。
うむと頷き、次はレイフリックを方を向いて「そなたも食べてみよ」と促した。
レイフリックは……おそるおそる、アヒルバトの串を手に取ると、ゆっくり、そっと、アヒルバトの身に口をつける。
「……む」
一口かじったところで、訝しそうに串を眺めてから、
「私はこれだけでよい」
静かにそう言って、串を置いた。
食べかけの肉を、串に残したままで。
ぼくの方を向くこともせず、レイフリックが話しはじめる。
「確かに味はよい。だが、毒でないと言い切れる保証があるか? この世にはうまくとも人を死に至らしめるキノコもある。牧畜の民ならよく知っておろう」
レイフリックの言うことは、もっともではある。
けれども、このときぼくは少し——いや、かなり、冷静さを欠いていた。
「……お言葉ですが、毒が目に見えないのなら、肉の色もまた、毒の有無を判断する材料にはなりえないのではありませんか?」
「と、トーマ!」
「貴様、身のほどを知らぬか」
慌てるリリーと、気色ばんで席を立とうとするレイフリックを、男爵が制する。
「よい、レイフリック、リリー。——トーマと言ったか。詳しく聞こう」
レイフリックは渋々腰を降ろし、リリーは不安げな眼差しをぼくに向ける。
大丈夫。ぼくも少し落ち着いた。
それに、これはやはりちゃんと言っておかなければいけない。
「充分に火を通すことで、目に見えない小さな虫を殺す力があることは、確かに仰るとおりです。火を通さない生の肉、あるいは生焼けの肉には中たり、充分焼いた肉では腹を下すことはない。これは間違いないことです」
「では貴様は何故あのような生焼けの肉を出したのだ」
ぼくを睨みつけながら、レイフリックが怒気の込もった声で言う。
しかし、ぼくは動じない。
「生焼けではないのです」
「どういうこと?」
「身体の毒になる虫は、熱に弱い。しかし、それは肉の色が変わるほどの熱い火でなくてもよいのです。弱い火であっても、時間をかければ殺すことができる」
低温殺菌法の確立は、西洋においては、その名前が示すとおり、パスツール先生の登場を待たなければいけなかった。
けれども、たとえば日本においては、日本酒の火入れなど、沸き立つほどの温度でなくても腐敗を防ぐことができることは、近代以前から知られていた。
なので、低温で殺菌するということ自体は経験で知りうることだと思う。
もっとも、貴族階級、つまりこの国でそれなりの教養がある人間が知らないということは、確立されていないってことなんだろうけど。
もちろん、虫——虫ではなく、食中毒菌のことだ——の種類によっては、殺菌に要する温度は異なる。耐熱菌を殺すには、充分に火を通す必要がある。
「それをどうやって証明するというのだ?」
レイフリックだけでなく、男爵も同じ疑問を抱いているようだった。
この世界の菌に関する知識を、ぼくは持ち合わせていない。
もしかしたら、アヒルバトのローストが重篤な病気の原因になったりするのかもしれない。
だから、ぼくにできるのは。
「わたし自身が食べて、このように無事であるということくらいしか、証明する材料を持ち合わせていません」
ぼくが食べて無事であるということを示すことだけだ。
これだって、たまたまぼくが大丈夫なだけかもしれない。
数年後、あるいは十数年後になんらかの病気を発症するリスクを増加させていないと、証明することはできない。
でも、リスクの話をしてしまえば、たとえば白い食事は明らかに濃色野菜の摂取が不足している。こんなバランスの食事を摂っている人たちがね、数年後、数十年後に病気に罹ることを今更恐れるのかと。
——とは、言うまい。〈わたし〉だって、たいがいひどい食生活を送ってきたものなのだから。
リスクの話は、やめだ。
絶対なんていうものは、ない。可能性の話をすればきりがない。
そして今必要なのは、科学的な根拠を示すことなんかじゃない。彼らを納得させ、安心させることこそが求められている。
ぼくは背筋を伸ばし、リリーを、レイフリックを見やって、それから、胸を張って男爵の方を向く。
「このアヒルバトが真に生焼けであるのなら、わたしは今ここに立ってはいないでしょう。床に臥せっているか、あるいは、死の淵にいるのかもしれない。しかし、わたしは今、ここにいて、皆様に料理を振る舞っている」
自信を、覚悟を、見せるべきなのだ。
「わたしは自分の作ったものに自信があります。恐ろしさを微塵にも感じていない。決して無謀ゆえではありません。知っているのです。そしてなにより——」
言葉を一旦区切ると、レイフリックが食べ残した串を手に取る。
かじりかけの肉を、串から抜き去るようにして、口に入れる。
「な、貴様——」
唖然とするレイフリックをよそに、ぼくはアヒルバトの肉を噛む。噛みしめる。
ちゃんと、おいしい。
おいしい。
こんなにも、おいしい。
「こんなにもおいしいのです」
部屋がしんと静まり返る。
男爵も、リリーも、爺も、クーシェルも、それからレイフリックも。
誰も口を開かずに、黙り込んでいる。
「……失礼いたしました。このような分を弁えぬ振る舞い、そして、口に合わない料理をお出ししたことについては、いかなる処罰も受ける覚悟にございます」
そうしてぼくは爺の一歩後ろへと下がる。
「本日の料理は、以上になります。お嬢様の祝いの席を台無しにしてしまい、申しわけありません。これにてお暇をいただければありがたく存じます」
「トーマ!」
「よい……下がれ」
リリーが悲痛な声でぼくを呼び止めようとするも、男爵が制して、苦い顔でぼくを下がらせる。
これで首になっちゃうかもしれないね。
文字通り首をはねられて首だけになるかもしれないけど。ワハハ!
素直に下がらせてくれたから、沙汰は追って下されるんだと思う。
どうなるかな。
さすがに死にたくはない。こっそり屋敷を去ってもよいと思っている。
ここらが潮時なんだろう。
食堂を辞して、使用人部屋に引っ込んで夜逃げの仕度をしていたところ、男爵に呼び出された。
思ったより早い呼び出し……ということもないのかな。今呼ばないと夜の間に逃げ出されてしまう、という判断があったかもしれない。
万事休す。
そう思っていたけれど、なんと、ぼくは死ななかったのである。