アムが目を見開いてリリーを見る。
まるで信じられないという顔をしている。
わかる。
いやわからない。リリーは今なんて言ったんだっけ……?
おそるおそる、ぼくはリリーに尋ねてみる。
「ピリっとするって……えっと、リリー……わかるの?」
「わかるって……トーマも、アムも、この、変な感じで、魔境の入り口を判断したのでしょう?」
「確かにリリーがいう変な感じは、ぼくもわかるし、アムもわかるよね」
「うん」
でも、そういうことじゃなくて……ぼくはアムと顔を見合わせる。
師匠が幻素を目で見ることができることよりも、はじめて魔境に来たリリーが幻素を感じ取れていることのほうがよっぽどありえない。
はじめて魔境に来た人間が幻素の毒に対する反応に自覚的になるところなんてぼくは見たことがないし、きっとアムもそうだろう。
ぼくとアムの困惑をよそに、リリーは続ける。
「でも、幻素が見える見えないの前に、目が見えてないのよね……あっ、そうだわ! ここに来る前に、アムが言ってた『わたしたちには見えないものが見える』っていうの、あれが、幻素……っていうこと、なのかしら?」
考えを整理するようにリリーが言葉を並べていると、師匠が答えていう。
「目を瞑っていても強い光が目を焼くように、幻素もまた目蓋越しにさえ感じることができる。我はそれを感じ取っている」
リリーは目を閉じてみて、じっとしたままで魔境のほうを向いているけれど……やがて諦めたように肩を落として、ため息をこぼす。
「何も見えないわ」
「それはそうだよ」
だからこそ、師匠にはぼくらが見えないものが見えているって言ったのだし。
「でも、トーマやアムも、ここに着いたときに、あの先が魔境だってわかってたわよね? それに、今の今まで一度も魔境の中に入ってないのに、どうしてこの先が魔境だって分かったの?」
「ぼくとアムは、うーん、耳で聞いてるっていうのが近いのかなあ」
「わたしは、頭に響く感じ、って思っているのだけど……そっか、耳、なのかな」
〈わたし〉が知らない感覚だから、〈わたし〉の言葉で言語化するのはちょっと難しい。たとえば第六感みたいな言葉に置き換えてみてもしっくり来ない。
幻素の毒に対する反応だと〈わたし〉は理解しているけれど、じゃあそれがどういう感覚かというと、ぴったりはまる言葉が見つからない。
たとえば……誰もいない家に帰ってきて、アナログテレビがついているのがわかる感覚……あれは近いかもしれない。近くないかもしれない。〈ぼく〉はアナログテレビというものを知らないのだけど、あれは確かに頭に響く感じとも言える。実態は高周波ノイズだから、〈ぼく〉の耳で聞いているという感じ方も近い。
リリーの感じ方は、皮膚感覚だ。
寒いとか暑いとか、空気が乾いているとか湿っているとかは、肌で感じ取る。
でも、肌で幻素の濃い薄いを感じ取るのはとても難しい。
たいていは魔境に長くとどまってからなんとなく肌がざわつく感じに気付くし、外に出てようやくこれが幻素の毒が肌を焼く感覚なのかとわかる。
魔境に近付いたときの違和感としては、肌より耳のほうがずっとわかりやすい。
だから、
「ああ、そっか……耳の奥がなんだか嫌な感じがしていたのは、魔境に近付いていたからなのね」
肌でわかるなら、耳で感じることができても不思議はない。
リリーが魔境に近付いてもよくわからなかったのは、この違和感が魔境によってもたらされているかどうか知らなかったからだ。
不思議はないけれど……隣にいるアムは絶句している。
「リリーはトーマやアムよりも牧人に向いているかもしれんな」
冗談めかして師匠が笑って……不意に、口を引き結び、背後を振り返り見る。魔境化した山道の脇、茂みの奥を、じっと見据える。
「来るぞ」
言うやいなや、葉擦れの音とともに、茂みから飛び出す。影、二つ、三つ。
師匠は流れるように杖を振り抜く。
風を切る音。鈍い音。吹き飛び、地面に叩きつけられ、それは動かなくなった。
その正体を確認する間もなく、ぼくの方に何かが跳ねるように向かってくる。
小型の獣。細長く伸びた耳。猫よりは一回りほど大きい。
発達した後ろ脚で地面を蹴り、飛びかかる。
「ふっ」
宙を舞う獣に、慌てることなく杖を振るう。杖の先が獣の身体を捉える。手に衝撃が伝わる。骨を砕く感触。そのまま振り抜く。
吹き飛ばされ、しかしあざやかに着地し、獣は身を翻して茂みの奥へと去っていく。
「仕留めそこなったか。腕が鈍ったのではないか」
「一撃で仕留められるのは師匠くらいですよ……」
ぼくが獣を追い払う間に、師匠の先に転がる獣の身体は二つに増えている。
振り向くとリリーがアムにしがみついて震えていた。一方アムはまったく動じるところがない。怪物がめずらしくないというのもあるけれど……怪物に襲われても自分に危険が及ぶことは考えていない……それだけ師匠やぼくを信頼しているのだ。
信頼には応えられたと思う。
アムがもう大丈夫というようにリリーの肩をそっと叩くと、ややあって、リリーがゆっくりと口を開く。
「い、いまのは……何……?」
「あそこに転がっているのが、モリハズリ」
だったものと呼んだほうが正しい。アナグマに似た姿の獣が、首をあらぬ方向に向けたままで地面に横たわっている。眠っているようには見えない。
「ぼくが追い払った方は、サビウサギ」
「う、ウサギには見えなかったわ!」
そうかもしれない。
アムが苦笑いを浮かべて頷いている。
サビウサギは、頭はウサギというよりはリカオンとかフェネックに似る。耳が長くて、たくましい後肢を持っていて、全体的な姿形はノウサギらしくはある。目が横でなく前にあったり、顎が発達していたり、肉食獣の特徴を持っているから、犬や猫に近い生き物なのかも知れない。
「そこの……モリハズリ、と言ったかしら。そっちは、もう動かないみたいだけれど……その」
「死んでおるよ」
師匠の言葉に、リリーは息をのむ。
生き物が死んでいるところを、あまり見たことがないのかもしれない。
ぼくはそっとモリハズリの死体に近付くと、首もとに手を当てる。
首の骨が砕かれている。これで絶命したのだろう。
飛びかかってくる獣の首を打ち抜くのがどれだけむずかしいかは言うまでもない。
師匠がもう一体のモリハズリの傍にかがみ込み、懐からナイフを取り出すと、刃先をモリハズリの首元に当てる。ごりごりと鈍い音がして、首が切り落とされる。
「トーマはそっちを頼む」
ぼくは頷くと、アムの方を振り向く。ぼくが何かを言うより早く、アムはぼくのほうへと近寄って、ナイフを手渡してくれた。
黙々とモリハズリを捌く。
「あの、その死体……捌くのは、どうして? まさかとは思うけど……」
顔をあげると、引きつったリリーの顔があった。
「さすがに食べないよ」
モリハズリの肉の断面を見せる。
「み、見せなくていいから」
「いいから、見て」
おそるおそる、リリーは薄目でモリハズリの肉を見て……それから「あっ」と声を上げて、目を見開く。
「なにこれ!? どうなっているの? なんで、こんな……肉が、光って……」
モリハズリの肉は、青白く光っていた。
「これが怪物の肉だよ」
「かいぶつ……」
「幻素の光だって聞いたけど……どっちにしても、幻素の毒に染まった肉は、こんなふうに光って見える」
「じゃあ、食べたりしたら」
「どうなるかは想像のとおりだね」
「でも……この見た目で食べようっていう人はいなさそうね」
それはそう思う。
「食べるんじゃなかったら……どうして?」
師匠のほうを見る。
もう捌き終わっているようだった。
骨と牙、爪、それから、青白い結晶の塊がいくつか並んでいるのが見える。
「こいつを採るためだな」
こつこつと結晶を小突いて言う。
「怪物の体内の幻素が結晶化したもの……らしいんだけど」
「怪物や魔境の研究をする学者さんが、高く買い取ってくれる。何の役に立っているのかは知らぬが、金になるからな」
「お金……」
リリーが呟く。
「牧人って、もっと自然とともに生きているのかと思っていたわ」
「金がなければ、生きられぬよ。それは街の民でも牧畜の民でも変わりない。マウシカやラクの世話を飼うのも、乳を売り、毛を売って、金を得るためだ。もっとも、金のために金を得ようとしているわけではない」
「お金のために、お金を得る」
「人の世には、そのような者もまたいようということよ」
師匠がリリーと話している間に、ぼくのほうも捌き終わった。
「あたりに怪物の気配はせぬし……少し様子を見るか」
そういって師匠は奥に視線を向ける。
つられてぼくとアム、リリーも、魔境の奥のほうを見やる。
リリーがいぶかしそうに目を細めて、茂みの一角を見つめて言う。
「……何か動いてない?」
緑色の物体が、じりじりと茂みから這い出してきていた。