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領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

32. 何もしてないのに壊れた

 医療が発達しているでもなし、腹痛の原因は明確には分からなかった。
 心当たりはある。
 ただ、心当たりが多すぎて分からない。
 分からないふりをさせてほしい。
 ベッドの上で身体を丸めているうちに、夕方になる頃にはいくぶん楽にはなり、やれやれと身体を起こしたところでちょうどリリーが見舞いにやってきた。

「トーマ、大丈夫?」

 リリーが気遣わしげにぼくの顔を覗き込む。

「うん、まあもう平気かな」
「どうせ変なもの食べたんでしょうけど」

 そういって呆れ顔で彼女は笑う。
 ぐうの音も出ないほどの正論なんだよな……。

「それで、何を食べたの?」

 それから強調するように「わたしのいないところで」と付け加える。

「糊」
「え?」
「糊を食べたんだ」

 リリーは「何を言っているんだこいつは」という顔をしている。いやリリーは「こいつ」とか言わない。

「お腹が痛すぎて頭が変になったのかしら。爺に言って薬を出してもらうわね」
「いや糊を食べたのは間違いないんだよ」
「じゃあ糊を食べる前から頭がおかしく……? そういえば幻素って人間によくないものなのよね。地揺れの後、山に行ったせい……?」

 もうお腹はそんなに痛くないはずなんだけど、お腹痛いせいで頭が変になったのかな。なんだかお腹痛くなってきたな。
 そんなわけない。

「頭はいつもどおりだよ」
「そうよね。頭がおかしくなかったら……パン、だったかしら。この世にない、食べたこともないものを作ろうなんて思わないものね。トーマがちょっと変なのはもともとだったわね」
「ひどくない?」
「え、だって糊……糊ってテーブルクロスをぴんと伸ばすのに使う、糊よね」

 そんなの食べないでしょう、というリリーの指摘はもっともなものだと思う。

「じゃあ、は?」
「食べないわよ。だって膠って、絵を描くときに下地に塗るあれよね」
「うん。でも食べられるし、リリーも実はもう食べたことがあるはず」
「え、嘘」
「膠は動物の皮や骨を煮出して作るんだけど、言い換えると動物の皮は骨には膠になる成分が含まれてる」
「うん」
「だから動物の皮や骨を煮出して作ったスープには、もちろん膠が溶けています」
「なるほど……っていうことは、この間のアヒルバトのスープね?」
「正解。だからあれも冷えると固まるよ。実際に見てもらうのが一番わかりやすいんだけど」

 といって実物を用意できるかというとむずかしい。
 アヒルバトなんかそうそう食べられるものではないし、他の動物の肉にしたってそう。もうちょっとすると間引かれた仔ラクが市に出たりするんだけど、あれこそ贅沢な食べ物だ。

「というか、絵を描いたりするんだね」
「これでもお嬢様だから」
「これでもってことはないでしょう。リリーはお嬢様だよ」
「男爵家のね」

 そういって、どことなく物憂げにリリーは微笑む。
 数ヶ月くらい一緒にいるけど、ぼくはリリーのことをまだまだ全然知らない。

「ともかく、膠が食べられるものだっていうことはわかったわ。でも、だから糊が食べられるって話にはならないでしょう?」
「うん。だからぼくが言いたかったのは、食べられるかどうかっていうのは、食べるための用途のものかどうかじゃなくて、食べられる材料で出来てるかどうかで決まるよ、ってことなんだ」
「ええと?」
「膠は食べ物以外に使うけど、食べられる材料で出来てる。だから食べられる」
「うん」
「糊は食べ物以外に使うけど、食べられる材料で出来てたら?」
「食べられる……でも、お腹壊してるじゃない」
「はい」

 ぐうの音も出ない。
 いや、まだ糊が原因と決まったわけじゃない。
 決まったわけじゃないんだけど……。

「だいたい、食べられる材料だったら、もう食べ物に使っているでしょう?」
「ごもっとも」

 たとえばでんぷん糊はでんぷんが原料で、でんぷんは糊に使う。でもとろみづけに使ったりもするわけで、ひるがえって、糊をとろみづけに使わないならそれは食べられないというか、食べ物として認識していないってことになる。

「それより、糊の原料って、よね?」
「そうだよ」
「よく食べようと思ったわね……」
「うん。ぼくにしてみれば、あれはそのへんに生えてる雑草みたいなものだから」
「雑草なら食べられるって?」
「うん」
「あのね」

 リリーは大きくため息を吐くと、呆れたふうに言う。

「雑草だって食べないわよ」

 おかしいな。


 確かに、雑草だってなんでもかんでもは食べたりしない。食べて危険な草もある。でもこれでも食べて危険な草とそうでないものの区別くらいはつく。
 ということを説明したら、

「そういうことじゃないんだけど」

 と返された。

「まあ、いいわ。雑草だとして、あれがどうして雑草なの?」
「よく聞いてくれました」

 リリーは不満そうな顔で「続けて」と促す。

「コボロは、って動きます」
「あの見た目でね」

 思い出してしまったのか、リリーはちょっと嫌そうな顔をする。

「ここで、植物は移動しない。動物は移動します。とすれば、コボロは植物よりは動物と考えたほうが自然になる」
「イオノーと言ったかしら。あの人は草木のようなものと言っていなかった?」
「うん。でも、本当に草木だったら移動する必要がない。草木に移動が必要なら、今頃世界中の草木に足が生えて歩き回ってるよ」
「確かにそうね。でも、だったらどうしてあれが雑草になるの?」
「その前に、動物が移動するのはなんでだと思う?」
「餌を探すため?」
「そう。外敵から逃れるため、っていうのもあるけど。コボロは餌を求めて移動してる」
「わかってきたわ。つまりトーマは、あれは雑草を食べてるから雑草みたいなものだって言いたいのね」
「そのとおり」
「でもそれっておかしくないかしら。雑草を食べていて中身が雑草と同じっていうんだったら、雑草からも糊が作れるはずじゃない」

 現実には、糊の材料になるような草は見つかっていないし、複数の雑草を組み合わせて糊を作るレシピがあるわけでもない。誰も試してないだけっていう可能性はあんまりないと思っていい。人間は、あるものはだいたい使ってきた。でんぷんを糊にするし、ミルクやチーズから接着剤を作る。一方で硝石をハムやソーセージの保存料に使ったりもする。硝石の保存料としての利用は五〇〇〇年前には確立されていたらしい。誰が思いついたんだろうね。
 そんなわけで、食べ物を食べ物以外に、食べ物以外を食べ物に使う例は枚挙にいとまがない。だから今現在、雑草から糊を作っていないということは、作れないからということだろうと思う。
 けれども、雑草から糊が作れないのに、雑草を食べているであろうコボロの組織液からは糊が作られる。これはどういうことか。

「本当に雑草を食べるために移動してるのかしら」

 まずはその疑問を解消する必要がある。

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