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領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

34. 実験の振り返り

 糊を使い切って糊入りパンを作れなくなったのは仕方がないとして、せめて謹慎が開けるまでの二週間の間、どんな試作パンを作ってきたのかくらい話を聞かせよと我がお嬢様は仰せられるので、これからその話をしていこう。

 バニッジの生地に糊を添加すると膨らむが、そのかわりに味がしなくなる、ということがわかっている。
 その原因を探るために、糊と一緒にいろいろなものを食べるということを試してみた。塩味、甘味、酸味、苦味についてそれぞれ試す。塩、カブイモでんぷんを唾液で糖化したもの、ルビーベリー、カウェルを使った。
 一番劇的に味を感じにくくなったのは甘味だった。ルビーベリーには酸味だけでなくほんのり甘味もあるけれど、酸味だけがわずかに残るという感じになった。甘味以外についてはわずかに感じられる程度まで鈍くなった。
 今回甘味は充分甘さの強いものを用意できなかったから、もともと弱いものだったからほとんど感じにくくなっただけという可能性は否定できない。
 ただ、味の種類にかかわらず全体的に感じにくくなるということは言えそうに思う。なんでそういうことが起こるのか。味覚をマスクする効果がある?
 味は、味覚受容体に味覚物質が結びつくことで生じる。しかしながら、味覚受容体は必ずしも味覚物質だけと結合しない。味覚受容体と結びつくけれど味を感じさせない物質というものも存在する。
 たとえばミラクルフルーツはそれ自体は甘くないけれど、次に食べたものの酸味を甘く感じさせるミラクリンという成分を持つ。なので、ミラクルフルーツを食べてからレモンを食べると甘くなる。
 どういうことかというと、ミラクリンは、それ自体は味を感じさせないけれども味覚受容体には結びつくことができ、水素イオン——酸味はおおよそ酸性の物質によってもたらされる——と反応して甘味を感じさせる働きを持つ。
 味覚受容体と結びつくけどそれ自体は味を持たず、味覚を変化させる物質のことを、味覚修飾物質と呼ぶ。ミラクリンのように酸味を甘味に変えるものもあるし、甘味や塩味を感じにくくさせたり、苦味を抑えたりするものもある。
 今回甘味が特に感じにくくなったということは、糊の中に甘味受容体をマスクするような物質が含まれているんじゃないかという気がする。塩味や酸味、苦味も鈍くなったので、甘味受容体以外に対しても作用するのかもしれない。
 この他、この物質の効果はあまり長く続かないだろうということと、あとはパンを焼いても効果が失われなかったということは熱で失活しないだろうということも考えられる。
 そんな物質、ある?
 この世界には存在しないであろうミラクルフルーツのくだりは省略して、リリーにこの話をしたところ、糊で本当に味を感じにくくなるのならわたしも試してみたかったと、とても残念そうにしていた。糊がコボロで出来ていることも忘れているようだったので、そのことを伝えると、にわかにひどく渋いものを食べたような顔になり「嫌なことを思い出させないで」と言われてしまった。

 味の実験に続けて、糊を添加した上で生地を醗酵させるということを試した。
 ヘラムギの生地に粘りと弾力があれば、醗酵で生じるガスをしっかりと受け止められるようになる。醗酵時のガスは生地内に気泡を作り、内側から圧し広げようとするけれど、粘りと弾力があれば気泡の膜がこれをしっかり受け止めることができるようになる。
 結果、生地内に無数の気泡が生まれ、ぱんと膨れ上がる。パンだけにね。

 ……ここまでは、あくまでも仮説だ。これが正しいかどうかは、実際に醗酵させてみないとわからない。

 はたして、糊を添加した生地は、むっちりと膨れ上がった。パンの生地のようなものになった。
 喜ぶにはまだ早い。
 焼き上げてみないことには、成功したとは言えない。

 結論から言うと、パンにはなった。ただ、形はひどく不格好なものになった。横割れ、でこぼこした形の歪なパンだ。
 思わず笑ってしまった。
 おかしくて笑ったのもあるけれど、なによりうれしかった。

 だってこれはパンの失敗作だ。バニッジじゃない。
 パンって焼くのがむずかしいんだよね。一朝一夕に焼けるものじゃない。ましてこれはコムギじゃない、ヘラムギっていう地球にない作物だ。ヘラムギのパンのレシピなんてどこにもない。これからぼくが作るものだからだ。

 そう思ったら急にわくわくしてきた。いてもたってもいられず、それからひたすらに試作を続けた。できるのは失敗作ばかりだったけれども、楽しくてしょうがなかったのだ。糊の在庫のことなんて頭になかった。

「それで気付いたら糊を使い切ってた、というわけね」
「面目ない」
「まあいいわ。自信作ができるまで待ってあげる」
が入ってるのは、いいの?」
「う……、だからそれは言わないでちょうだい。考えないようにすれば食べられるって思ってるんだから」

 まあ、確かに見た目にはわからないし、言われないと気付かない。

「……トーマが」
「ん?」
「トーマがそこまでするものだったら、食べてみたいって思うのよ」

 アヒルバトのロースト、とってもおいしかったんだから。リリーはそう言って微笑む。なんだか照れくさくなって、つい顔をそらしてしまった。

「えい」

 頬に指を突きつけられる。

「ふぉ、ふぃふぃ、ふぁめ」

 リリーの手を払いのけ、憮然とした顔をしてみせようとしたところで……ぼくとリリーは互いに吹き出してしまった。

「ふふっ、あははは」

 ひとしきり笑ってからリリーが言う。

「トーマはやっぱりトーマね」
「リリーだって」
「そうね、そうかもね」

 こんなふうに笑いあったのはいつ以来だろうか。
 たった二週間、パン作りに夢中になってあっという間の二週間だったけれど、そこにはリリーはいなかったのだから。
 久しくぼくの隣にいなかったその女の子が、その間どうしていたのか、なんだか急に気になってきて、尋ねてみる。

「リリーは、謹慎の間はどうしてたの?」
「うーん、お勉強、かしらね」
「たとえば、どんな?」
「自身の命を軽んじて、みだりに危険な場所に立ち入ったりしない、とか」

 そういっていたずらっぽく笑う。

「それは、お叱りだったのでは?」
「そうとも言うわね」
「もちろんずっと叱られてたってわけじゃないよね?」
「あら、わたしってそんなに分別がないと思われてるのかしら」

 思わないけど、ちょっとお転婆なところはあるのでは……。
 とは、口に出さなかったけれど。

「今、ちょっと失礼なこと考えてたでしょう」

 顔には出てしまったらしい。


 そのあたりで爺がぼくの様子を見にやってきて、「トーマさんは病み上がりなのだから、あまり長く付き合わせないように」と、やんわりリリーを注意して、ぼくには「後で食事を運ばせるのでそれを食べたらゆっくり休むように」と言いつけると、リリーを連れて部屋を出ていった。
 結局リリーが何の勉強をしていたのかは聞けずじまいだった。
 後になって考えてみると、はぐらかされてたんじゃないだろうかと思う。
 このときのぼくは気付くことができなかった。

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