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領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

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 歳の暮れから新年にかけて、イスランドではエンブロークと呼ばれる祭りが行われる。「腹の中に」という意味の古語が由来だといい、これくらいの時期になるとラクのお腹は大きく膨らんで、やがて仔ラクを産む。出産間近のラクの腹の中のあたらしい命を、新年になぞらえているのかもしれない。

 にとっては死ぬほど忙しい時期でもある。ラクの出産は、ラクにとっては言葉通り命がけになる。牧人にとっても命がかかっている。ラクの命は牧人より重い。ラクによって牧人は生きることができている。そんなわけで、牧人は新年を祝ったりしない。命を落とした母ラクを弔ったり、あたらしく生まれた仔ラクの誕生を祝ったりということはするが、祭りというほどのものではなく、静かに祈りを捧げるだけだ。

 今のぼくは牧人ではないから、こうしてエンブロークをのんびり迎えることができている。こんなゆったりした歳の暮れというのも体験したことがない。もちろん使用人としての仕事はあるのだが、牧人の忙しさに比べればなんてことはない。

 領主の館では、備蓄の食糧を使った少し豪華な食事が振る舞われている。豪華というのは手間をかけたという意味で、使う材料は普段と変わらない。まだ冬が終わったわけではないから贅沢はできない。それでも目の前のテーブルの上には、カブイモの水飴を使った甘いパイだとか、ヘラムギ粉を練ったショートパスタだとか、ぼくがやってきてからクーシェルと一緒に試行錯誤した料理の数々が並んでおり、なかなかに見映えがする。
 ランスワードがそのひとつひとつを味わっては満足そうに頷く一方で、レイフリックは終始渋い表情をしていた。
 

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