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雨と紅茶とルーブ・ゴールドバーグ・マシン

プロローグ

 レールの上を銀球が転がっていく。レールの端から滑り落ちると、下のレールが銀球を受け止める。銀球の転がる方向は上り勾配になっているが、滑り落ちた勢いのまま、傾斜を上っていく。上りきって銀球がレールの端に立てられたドミノ牌を押し倒すと、銀球は反発力と重力に従い、逆の端へ向かって転がり出す。押し倒されたドミノ牌はレールから落ちる。ドミノ牌には紐が括り付けられていて、その端は別のレールの端に繋がっている。ドミノ牌に引っ張られてレールが傾き、新たな銀球が転がり出す。同じように銀球がレールの端から滑り落ちて、下のレールの端にあるドミノ牌を倒す。そして新しい銀球が転がり出す。
 その一方でドミノ牌を倒した銀球はというと、レールから落ちて、そのまた下にあるレールに受け止められる。これが一番下のレールだ。転がり落ちた銀球はすべてこのレールが受け止める。緩やかな傾斜を転がりながら、机の端から飛び出して、すとんと落ちる。
 机の端には紙コップがぶら下げられている。落ちた銀球はこのコップの中に次々と入っていくわけだ。
「銀球が転がるのを見ると、世界を構成するのは粒子だって実感する」
 それまでじっと成り行きを見守っていた彼女が、ぽつりと呟いた。
 すべての銀球が紙コップの中に入ると、紙コップは銀球の重みでゆっくりと沈み出す。紙コップを吊り下げているのは、目線くらいの高さに設置された滑車だ。滑車のすぐ隣にはパイプを二本並べて作られたレールがあり、端にちょこんとソフトボールくらいの大きさの球が乗っている。紙コップが沈むと、反対側が浮き上がってくる。反対側にはボール紙が吊るされている。紙コップが一番下まで沈んで、浮かび上がったボール紙がゆっくりとレールを持ち上げる。レールが傾くと、それまで静かにたたずんでいたボールが、いざゆかんと転がり出す。
 レールは上から下まで四本。横倒しのW字状、いわゆるスイッチバック方式になっている。しかし端はきれいに揃っていて、ボールが端から落ちても、下のレールが受け止めることはできない。
 そんな心配をよそにボールはどんどん転がって、端まで行く前に、レールの途中ですとんと下に落ちた。レールは並行ではなく、ハの字状、つまり下のほうに向かって広がっていて、ボールの径よりレールが広がったところでボールが落ちるようになっているのだ。
 そうしてボールが一番下までやってくると、そこにはDVDのトールケースが立てられている。一枚じゃない。列を作るように何枚も立てられている。ボールがレールの端まで転がり出して、列の端のケースを押し倒す。ドミノ倒しのように次々と押し倒されていく。
「けれどもドミノ倒しを見ていると、世界が波に満ちているとも思えてくる」
 静かに彼女は言う。
「どっちが正しいんだろう? でも、わたしには、どちらも本当のことに思える」
 ケースはどんどん倒れていく。
「そういう意味だとルーブ・ゴールドバーグ・マシンは、世界そのものかもしれない。けれども」
 一番最後のケースが倒れて、すぐ隣に立てられたハードカバーの本を。
 しかし倒すことができず、それまで続いてきた連鎖的な流れが、そこで止まってしまった。
 倒れなかった本を手に取り、表紙に記されたタイトルを指でなぞりながら、彼女は言う。
「もしこれが世界そのものだとするなら、こうやって失敗してしまうことも、織り込み済みなのかな」

 ルーブ・ゴールドバーグ・マシン。
 簡単な問題を解決するために、間接的で入り組んだギミックを多数、連鎖的に用いる複雑な装置のことだ。ルーブ・ゴールドバーグっていうアメリカの漫画家が考えたらしい。二十世紀、どんどんと機械化が進んでいく世界に対する皮肉だったと言われている。けれども二十一世紀の今日、機械はぼくらの日常に溶け込んで、当たり前に存在している。
 なるほど、確かに世界は思ったより複雑なのかもしれない。
 けれどもぼくは、彼女の言葉には諦め以外の色がにじんでいるような気がしてならないのだ。
 さて、こうなった経緯はというと、と言いたいところなのだけど、彼女とぼくの話をするにあたって、いくつか前振りが必要になることを了承されたい。
 それは、からくり装置の失敗よりも、いくらかる。
 四月。ぼくがまだ高校に入ったばかりの頃のこと。

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