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雨と紅茶とルーブ・ゴールドバーグ・マシン

第3話

 部室に戻ると、いつもの席に部長がいた。
「入部条件の一つ目、ちゃんと覚えてる?」
 ぼくの顔を見るなり、部長はそんなことを言う。
「すみません、緊急の要件があったので遅れました」
 これくらいのことを平気で言えるくらいには、ぼくはこの部にいることに慣れたと思う。
 居心地がよくなった、とも言えるかもしれない。
 部長は何も言わない。
 窓の外は雨だ。
 部長の机にティーカップはない。
 彼女は紅茶を飲んでいない。
「今日は紅茶を飲まないんですね」
「……そういう日もある」
「習慣じゃ、なかったんですか?」
「雨宿りはそろそろ終わりなんだ。だからいつまでも紅茶を飲んでるわけにはいかない」
 PCのファンが回る音が止む。
「明日から、来なくてもいいよ」
 部長が立ち上がる。鞄を手に、歩き出す。
 ぼくは、身動きが取れない。
 部室の入り口で、部長が言った。
「無理やり引き込んで、勝手なことを言って、ごめん」
 そして、部長は出て行った。
 部屋に取り残されてひとり、ぼくは悪態をつく。
「ほんとだよ……勝手に入部させて、勝手に来なくていいって……」
 まだぼくは一人前になってない。
 どうしてコンピュータ研とは別にこの部があるのかぼくは知らない。
 どうしてこの部ではSFを読むのかぼくは知らない。
 どうして部長が雨の日だけ紅茶を飲むのかもぼくは知らない。
 何も知らないのに、何も知らないまま、彼女はぼくを放り出す。
 部長の机の上に置かれっぱなしの鍵。
 部室を施錠すると、ぼくは職員室へと向かう。


「情報科学研究部? ああ、情科ァ研か、うん、情科研だな。が、いつからあるかって、あーあの部ねえ、実はあの部って、コンピュータ研よりも歴史が古いんだよ。ええっと、PC98って言っても分かんないか。ま、二十年くらい前からあるらしい。コンピュータ研ができたのは……十年くらい前かなぁ。確かコンピュータ室の改装した頃だからな。あそこ、ほかの教室より綺麗だろ?って、ああ、まだ一年は情報科学の授業やってないんだったな。すまんすまん。まー、情科研ったら、そりゃーたいした部だったって話でなー。俺はまだその頃はこの学校にはいなかったから、聞いた話だけなんだが、いまだに教師の間でも語り継がれてるくらいでな。何しろコンピュータ室の改装にあたって、まあ部室を追いやられることになったんだが、『マシン一台あればだいたいのことできるんで』って言って、適当な部屋間借りしたんだよ。で、本当にそんな狭い部室で、だいたいのことつって、とんでもねえことをしでかした。やれ放送室まで線をつないで放送をジャックしただの、やれ職員室まで線をつないでテストのデータを引っこ抜いただの、本当にとんでもねえことをする部だった。ところがまー、やつらのおかげでこの学校のセキュリティの穴がどんどん塞がっていって、生徒が悪巧みしようにも、いつの間にか堅固すぎて手出しできないレベルになってた、らしいな。なんつうか、多分ああいうのをハッカーって言うんだろうな。まあ、多少尾ひれ付いてるとは思うけどな。まー、今のコンピュータ研には、そういう意識が足りんな。せっかくいい機材使ってるのになあ。情科研は、まあ今はもう部員がずいぶん減ったからなー。それでえっと、……なにが聞きたいんだって?」
「当時の部長の名前って、分かります?」
「さすがにそこまでは……、あ、いや、待て。待て待て。そういうのは図書室で司書の先生に聞いたらいいんじゃないか? 部の記録なんか残ってるだろ、さすがに」
「そうですね、聞いてみます。ありがとうございました。それと、鍵ってどこに返したらいいですか?」
「おーおー、俺が戻しとく。雨も強いからな、気をつけて帰れよ」
「はい。失礼しました」


 図書室に寄って、まだ開いてるかは不安だったけど、司書の先生はいた。聞いてみたら、すぐ分かると言っていたから、少し待たせてもらった。司書の先生はさすがだった。膨大な部のデータから、あっさりと当人の情報を引き出した。聞いたら「これ、その情科研の子が作ったシステムなのよね」ということらしい。おそるべし情科研。
 感心していると、司書の先生が言う。
「いえ、作ったのは卒業後なのよ。その子、フリーランスのエンジニアになってね。あちこちで仕事を請け負ってやってたみたいで。うちの学校に来たのは、ふらっと様子を見たかったんで、ってことらしいんだけど」
「今ってどうしてるか分かりますか?」
「さあ……ああ、それで名前を調べようとしたのね」
「まあ、そうです」
「うーん、結構前の生徒だから、もしかしたらアルバムに住所が載ってるかも知れないわね。ちょっと見てみようか」
「お願いします」
 最近は個人情報がなんとかで、住所も電話番号も載せられなくなったそうだ。
「あったあった。うん、この近所かしらね。えっと」
「住所があれば充分ですよ」
「そう? じゃあ、これね」
「はい」
 ぼくはペンを手に、アルバムに記された住所を書き写していく。
「大丈夫です。ありがとうございました」
「はい。じゃあ、気をつけてね」
「ありがとうございます。失礼しました」


 ぼくは、思えば、ずっとやりたがらなかっただけだったと思う。
 先生と話したりするくらいは、まあだいたいできるのだ。
 事務的な会話だからだろうか。
 それでも人と会って話すのは緊張するし、あんまり好きじゃない。苦手だ。
 けど、できないかって、べつにできないわけじゃなかった。できないから嫌なんじゃなくて、できるけど嫌がってずっとしなかったんだ。必要に迫られない限りは、いいや、なんて。
 けれども、彼女と初めて会ったときはちょっと違った。
 言葉が本当に出てこないのだ。
 なにを話していいのか分からない。
 いや、多分それはクラスの女子相手でもそうだ。男子相手でも、ぼくは気後れするだろう。けど、どうでもいい相手なら、適当に対応することだってできるはずなんだ。実際そうやってうまくやりすごしてきたじゃないか。
 そういうのに疲れたから、やめにしようと思って、関わり合いにならないように、なんて考え出したのは、そんなに前のことじゃない。
 できなかった。
 だから今ぼくは、雨の中、別に急ぐ必要もないのに、走っているのだ。
 当時の部長の名前は、霧原悠希という。
 名前を聞いたときは、いくらなんでもできすぎだと思った。
 同時に納得した。血が繋がっているとすれば、さもありなん、だ。
 住所の場所に辿り着く。
 インターホンを押す。
 雨音に遮られないように、顔をインターホンに近づける。
 応答する気配はない。
 もう一度押そうか。
 そのときふと、玄関のドアが開いた。
 顔を上げる。
 部長だった。
「そんなところにいたら風邪をひいてしまうよ」
 壊れそうなくらい、優しい声だった。


 シャワーを貸してもらった。
 正直なところ、女の子の家に上がって、シャワーを浴びて、落ち着いていられるかって、無理に決まってる。けれどもつとめて意識しないようにして、ぼくは体を流すことだけに専念する。
「着替え、置いておくね」
 男物の服。父親のものだろうか。
 下着までは雨に濡れていないから、もう一度着ればいいとして、制服はもうどうしようもない。着替えと一緒にハンガーが入っていたので、それを借りることにした。
 部長の観察力は鋭い。よく気がつくということなのだけど、気を回せるかどうかはまた別だと思う。
 貸して頂いた霧原さんの衣服を身に付け、リビングに出ると、部長はソファに腰掛けていた。
 雨に濡れる捨て猫みたいだなと思った。
 すぐに納得がいった。
 居場所が、ないんだ。
 ぽつりと言う。
「Jokerというのはね。わたしの叔父の自称なんだ。『ぼくはHackerというほどだいそれたものじゃない。さしずめ、Jokerがいいところだ』って言ってたんだ。情報科学研究部、というのも、叔父が、後から『なんだ、略したらJokerじゃないか。ちょうどいい、Jokerに変えよう』なんて。あの取り消し線と書き足された文字は、そういう意味だよ」
 学校の先生が、情科研、情科研、と呼んでいたのって。
「昔は、JOKER研って呼ばれてたんだ」
 それでか。道理で、「か」の後を伸ばす気がしたわけだ。
「きみは、パタフィジックという言葉を知っているかい?」
 首を振る。
 聞き慣れない言葉だ。英語だろうか。
「これはフランス語なんだけど、日本語ではね、形而超学なんて呼んだりする。形而上学よりもっと上の領域のことを取り扱おう、そういうことを目指した学問なんだ」
 形而上学より上?
 ちょっと想像が付かない。
「よく分からないって顔をしているね。それが普通なんだ。パタフィジックというのは、要するに現代科学に対するパロディだからね。そもそも現代科学からしてよく分からないじゃないか、そんなよく分からないものを大真面目に論じるなんて、と皮肉を込めていたのかもしれない」
 部長はすっと立ち上がる。
 台所へ行き。
 お湯を沸かす。
 後ろ姿に、目を奪われた。
 台所に立つ女の子というのは、きっと魔法が掛かっているに違いないと思った。
 部長は、こちらを振り返りながら言う。
「きみはプログラムを読める?」
「い、いえ」
「そうだね。ケロスケくんは、プログラムを読めない。ケロスケくんにとって、プログラムというのは」
 なるほど、なんとなく分かった。
「……よく分からないもの、ですね」
「正解。よく勉強しているね」
「いえ……」
 部長の考え方の勉強? ちょっと、なんというか、それをよく勉強というのは、恥ずかしい気がする。
「そう、今の世の中、だいたいよく分からないものばっかりなんだよ。でもお湯が沸けば」
 ピイイイイイイイイ……
 甲高い音が台所から響いてくる。
「やかんが鳴る。これは、ごくごくシンプルだと思わない?」
「蒸気で震えて音が鳴るんですよね」
「そう。分かりやすいね」
 部長はやかんのお湯をティーポットに注いでいく。
「昔は、科学もシンプルだったんだ。機械だって、頭で充分理解できる仕組みで動いてたんだ。でも、今はもはやそうじゃない」
 しばらく待ってから、ティーポットから、ティーカップに注ぐ。赤い色。芳香が漂ってくる。紅茶だ。今日は雨。
 雨宿りのつもり、なんだろうか。
「じゃあ、ちょっと二階に上がろうか」
「え?」
 彼女はトレイにティーカップを載せて、リビングを出る。
 追いかけると、どんどん階段を上っていく。
 できるだけ上を見ないようにして、後をついて上った。


 その部屋は、なんというか、異様だった。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の冒頭を思い出した。そう。あの目覚ましだ。
 あんな感じのものを連想させる。
 金属製のレールだの、ドミノ倒しのように蛇行しながら並べられたDVDのトールケースだの、滑車だの、だ。
 全体を見回して、思い出した。そうだ。いわゆるピタゴラ装置だ。
「うん、そうだね。その名前が分かりやすい。これはルーブ・ゴールドバーグ・マシンといって、いわゆるパタフィジカルな装置だね」
 DVDケースを倒さないように、彼女は部屋の中心へと向かう。ぼくは怖くて入り口に立ったままだ。
 紅茶の載ったトレイを机に置く。
「直接やれば簡単にできることを、よく分からないけど遠まわしで迂遠な方法や手段で実現する。ばかばかしいと思わない?」
 頷きかけて、彼女の顔が冗談を言うそれではなかったから、そこでやめた。
「うん……ばかばかしくても、私には、遠まわしにしかできないんだ」
 机の上の銀球を指でつまみあげると、レールの一端にそっと乗せて、指を離した。


 そこからは、話したとおり。
 ぼくは、彼女に何も言えないで、部屋の入り口に立ったままだ。
「パタフィジックの日本語訳には、もうひとつあるんだ。なんだと思う?」
 ぼくは首を横に振る。
「空想科学」
「あ……」
「『JOKEに真剣になるぼくらには、空想科学はお似合いだね』と言ったのは、わたしの叔父さん」
「あの部室に、SFがあるのは?」
「そういう理由だね。といっても、後付、なんだけど」
 彼女の声が、震えていた。
「部長?」
「叔父さんはね、すごく優しかった」
 震える声で続ける。
「わたしのために、よく紅茶を淹れてくれたよ」
 この部屋を装置として機能させるためには、もう一度部品を整えなければいけない。だから、今ぼくがこの部屋に入るのをためらう理由はないはずだ。
 一歩踏み込む。二歩。
 部長の……霧原先輩のもとへ。
 先輩はそっとティーカップを手にとって、優雅な仕草で、傾ける。
 震える手で。
 熱がらないで。
 だって、もう、温くなってしまっているもの。
「もう、叔父さんの紅茶は飲めない。叔父さんは、わたしのために、切らした紅茶を買いに行って。ドミノ牌が、そこで途切れてしまったんだ」
 雨の日の。見通しの悪い交差点で。交通事故。だったらしい。
 ほとんどがで、正確には聞き取れなかったけど。
 一通り聞き終えて、ぼくは冷めた紅茶を飲み干す。
 口に残ったのは渋みだけ。
 その渋みを噛み締めるように言う。
「先輩が雨宿りできる場所は、失くしちゃいけません。失くさせません」

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