時折書頁を捲る音だけが静かに響く、静謐と謳われた書架。
そろそろ冬の様相を見せ始めた湖の辺の空気はひんやりと冷たく、ここに来るまでにいくらか寒い思いをしたけれど、館内はとても暖かい。相当な広さがあるにもかかわらず。
本棚に寄り掛かり、私は書頁を捲る。
『調べることがあればここに来る』というのは、私にとってもはや半ば自動化された習慣で、今日も調べもの以外に特別何か用事があったというわけでもなかった。そしていつも不思議に感じるのは、そういうときに限って特別変わったことが起きたりするということ。
黒い魔法の気配が近付き、静寂が破られる。
「本を借りに来たぜ」
「……貴方はいつもそう言って本を返してくれない」
図書館主の不平には全く耳も貸さず、ふと気付いたように私に声をかける。
「なんだ、アリスもいたのか」
「なんだとは何よ。いたら不都合でもあるのかしら」
脊髄反射的に口を衝いて出る言葉。彼女に悪意はない。多分、私にも。
「いや、別に悪くないぜ」
だから彼女も別に気にした様子もなく、さらりと返す。そうして彼女は自らの目当てを求めて本の樹海へ潜って行く。その黒い姿が陰に紛れて見えなくなるのを待つことなく、私も再び本へと視線を戻す。視界を埋めたのは細かな文字の羅列。どこまで読んでいたかを再度確認すべく、指先で文字をなぞる。
図書館に静寂が戻る。
文字の羅列を追いながら、ふと考える。あの頃の私は果たして今の私を想像できたろうか、と。果たしてこの静かな時間を想像できたろうか、と。そしてすぐに答えは出る。
そんなことは否に決まっているのだ。
再び文字に指を重ねて、そっとなぞっていく。
そうして繰り返される日々は、今日もただ静かに──そんなことを考える、そういうときに限って特別変わったことが起きたりする。
気付くと、隣に気配があった。いつの間に戻ってきていたのだろう、近くの書棚で本の背表紙を見比べる黒い魔法使い。ちらと視線を向け、一寸の後、手の上の開かれた書頁に並ぶ文字の羅列へと戻す。そうしてそのまま、
「あら魔理沙……いたのね」 何とはなしに、そんな言葉が口の端から零れ、
「『いたら不都合でもあるのかしら』だぜ」 なんて冗談めかして軽い口調で彼女は答え、
「いえ、別に?」 だから私もさらりと返す、
そんな静かなやり取りを交わす。それから止まっていた書頁を捲る手を再び動かそうとして、
「ところで」
と不意に声が掛かる。
視線をそちらに向けるも、声の主は背表紙を追う指に視線を向けたままで、本を探しながら彼女は続ける。
「こないだ自律してる人形を見たぜ」
指が止まる。
「自律人形? まさか」
努めて平静な声で尋ね返すも、血流がその勢いを増したのが自分でもはっきり分かる。いや、むしろ自ら復唱したことがかえってそれを助長したのかもしれない。
魔理沙はそんな私に構うことなく続ける。
「嘘じゃないぜ。この目で見たんだし」
「それ、本当なの?」
「間違いないな。ありゃ確かに人形だった。自分で考えて、自分で動いてたように見えたな」
そこで初めてこちらを向き直って、
「見に行こうか?」
考えるよりも早く私は首を縦に振っていた。
名も無きその丘へと至る小道を抜けると、見渡す限り一面の白──
ではない。
というのも、今はもう鈴蘭の花の咲く季節ではないから。それに、そもそも一面と言える程視界は開けていない。
「綺麗なところだけど……」
辺りに立ち籠める濃密な霧。ただの霧じゃない。
「すごい毒ね」
そう、毒。
辺りに広がる鈴蘭から溢れた毒が地深くに染み渡り、その毒をたっぷりと吸い込んだ大地から吹き出す霧もまた、やはり多量の毒を溶け込ませて抱えている。
「全くだぜ」
傍らを歩く黒い魔法使いでさえ、流石に苦い笑みを浮かべて頷いた。
話には聞いていたから予め抗毒薬を服用してきたものの、そうでなかったら今頃もう気分が悪くなっていたことだろう。
「季節が季節だから余計にだな」
「確かにね。これだけ霧が濃ければ仕方ないか」
咽返るような毒霧の中を進む。
「ま、この前みたいな満開のときに比べれば少しはマシかもしれないけどな」
鈴蘭の花は咲いていない。その代わり、緑の葉の隙間に朱く熟れようとしている果実が見える。霧で霞んでしまっていて、はっきりとは見えないけれど。
「旨そうな実だな。食べるのはゴメンだが」
「あら、意外においしいかもしれないわよ? 私も食べるのは遠慮しておくけれどね」
全く真剣さの感じられぬ呟きには、私も相応に不真面目な呟きを以って返事とする。さして意味のない行為だ。ただの馴れ合いだ。
私は目的を思い出した。傍らの案内人を見遣り、口を開く。そうして、
「それよりどこにいるのよ、その人形は」
と、呆れたような視線を向けて、そんな問いを発しようとしたところで、それは漸く姿を晒した。
霧の中浮かび上がる人型の輪廓。明確な凹凸を伴ないながら次第に一回りまた一回りと大きくなっていく。それと同時に平坦だった色もまた彩度を増していく。
鮮やかな、朱。
ほんの一瞬、鈴蘭の実の具象を錯角した。無理もない。霧の中拡がる薄赤い野にふと浮かび上がった朱い人影。その符合はあまりに出来すぎている。
薄くけぶるような赤、その真中に映える鮮やかな朱い人型より言葉が発せられる。
「人間がこんなところに何の用?」
傍らの案内人がいかにも得意げに口の端を持ち上げて、それを指差し言う。
「ほら、いたぜ」
「私は人間じゃないけれどね」
それが少し、ほんの少しだけ気に入らなくて、私は認めるとも認めないともつかぬ答えで返す。
眼前のいくらか距離を隔てた位置には、もうはっきり人の象をした朱い少女。なるほど、身を包むその衣は細やかに装飾が為され、確かにそれはまさしく人形の様相だ。霧の隙間で幻想的に霞む肌は白磁のよう、精密なまでに整った容貌も、そこに繊細に滴る金糸のような髪も、全てが彼女を飾る素材であるように思える。紅い小袖の朱襦人形。
「スーさんの実ならあげないわよ」
だが、それでも私は再度問う。
「本当に人形?」
その『人形』が余りに『人間』らしく振る舞っていたから。
澄み渡るような透明さの中に余り友好的ではない色を含んだ声が、あるいは硝子細工のようでいながらもその内に生き物としての脈動を持った瞳が、それらが確固たる強い意志を感じさせて、余りに『人間』じみていたから。
「人形だろ? っていうか、人形遣いなら分かるもんじゃないのか?」
魔理沙の言葉を受けて、人形は俄かに表情を変える。
「──っ、人形遣い!」
敵意の篭もった視線。
……ああ、なるほど。
確かに人形遣いというのは、人形からしてみれば余り良い存在とは言えないのかも知れぬなどと、すぐにそう思い至った。
初見から人形だと確信できていた筈なのだ。それを認めようとしなかったのは何故かしらね、などと自問してみるも、考えるまでもない。答えなど初めから分かりきっている。
「どうする、アリス?」
そしてまたも分かりきった問い。
「話をして分かってくれるとでも思う?」
「まさか。そもそも私がイヤだぜ、そんな面倒くさいこと」
お互い前を向くことなく言葉を交わす。
もちろん問うた本人もよくよく分かりきっていながらそう尋ねたのだ。
ほんの一瞬の間だけの互いの視線の交換という意思確認。
「実力行使ね」「実力行使だぜ」
そして、今に至る。
私は一歩退く形で、再度魔理沙の後方に位置を取った。いつもよりも少し抑え気味に、大きくは動かず、襲い来る弾幕を一つ一つ躱すのみだ。後ろでのんびりしている訳ではなくて、ここにだって毒の弾は降り注ぐ。
腕を、肩を、頬を、次々掠めては視界の端へと消えていく弾の数々。その一つ一つが猛毒かと思うと全くぞっとしない。
今持つ手札を再確認する。決して使いどころを見誤ってはいけない。
頭の中で展開を組み立てつつ、視線は前方へ。
紫の靄を切り裂く閃光と、光の雨を掻き消す毒霧。膠着状態とはこのことだろう。一進一退の攻防。私は考える。
毒人形は思ったより守りが堅い。華奢な体躯の割に、繰り出される弾幕は広範で規模も大きい。何より、一番厄介なのは、
「しまっ──」
前方の光景に気を取られ過ぎて、自分の周りへの注意が疎かになったか。足元から毒霧が私を覆い呑み込まんとて吹き上がる!
「こほっ、けほっ……ぅぐ」
毒に中てられて動きが鈍る。そう、警戒すべきは弾幕そのものよりも、この霧だ。吸気によって体内に侵入し、内側から躰を蝕む。毒が躰への命令伝達を阻害し、結果反応は遅れる。
そして、そこに迫り来る弾。
私は寸でのところで身を捻り、辛うじて躱す。普段ならどうということのない、至って普通の弾だ。けれど今のこの状況においては脅威になりえる。
何とか霧から抜け出し、息を深く吸う。言うなれば換気。有効かどうかは知らないけれど、気分は変わる。
ともかく、何とかするべきはこの霧。一息入れようとした私に、再度紫の靄が襲い掛かる。そうそう何度も喰らう私ではない。難なく躱し、再度定位置へ。
しかしながら、だ。
二人を相手にし更にその両方へこれだけの攻撃を繰り返しながらも、魔理沙が未だ攻めあぐねているというのは脅威だ。もちろん毒で本来の力が発揮できていないというのはあるだろう。でも、それだけじゃない。
この人形、戦い馴れしている。
相手の攻撃を誘いながら自分の戦い易い位置を常に確保している。
その攻撃の肝要となるのは毒の霧。直接相手の動きを鈍らせるのみならず、相手の視界を遮り霧に紛れての射撃や、あるいは自らの周りに霧を撒き散らし姿を眩ませて的を捉えさせない、まさに攻防一体の武器。
放たれる弾幕自体はさほど強力なものではない。だからこそ、彼女は戦い方を確立しなければならかったのか。だが、確立された戦い方は、そうであるからこそ、手を読むことができる。そして、手を読めたならば、そこから切り崩す為の足掛かりを見出せる筈。
手強いけれど……いける筈だ。
私は少しずつ、前方の弾幕へと近付いていく。
前方では魔理沙が毒人形に接近し、幾筋もの光条で空を薙いでいる。魔理沙を中心にして放たれる無指向性の閃光。安易に接近するのは危険だ。突然の攻撃への対処が遅れる。だが、近寄られる方も溜まったものではない。しかもこの攻撃の前では、得意の霧隠れも余り意味を為さない。なるほど、思い切りがあって面白い選択ね。魔理沙ならではの大胆な攻撃方法。
対する毒人形は、それでも接近を試みる私への攻撃も欠かさない。魔理沙には濃密に圧縮された霧を吐き出す。素早い魔理沙の動きを止めるには薄い霧では効果がないと見たか。他方私への攻撃は、牽制程度に留まっている。牽制とはいえ、まともに受けて無事でいられるものではない。蓄積された毒は確実に私を蝕む。だが、私は敢えて前に出る。多少の毒霧ならば、その中を突っ切ってでも前へ。
私とて別に後ろで呆けていた訳ではない。弾幕勝負では闇討ちは法度。予め罠を張るような真似はしない。符を展開するのはこれからだ。だが、策を練ることはできる。弾幕の癖を知り、癖を読み、切り崩す。それが後方に入った私の役目。
そして今、策は完成した。
「魔理沙」
「おう!」
魔理沙と入れ替わるようにして前に出る。
「遊びはこれでお終いよ」
高々と符を掲げ、最初の一手を放つ。終局へと繋がる決定的な一手を。宣言と同時に、懐から青と白の格子模様の筒裳を纏う人形を取り出し、加速。その勢いのまま、空へと人形たちを並べていく。
同時に次の符を握り、二手目を備えるべく懐に右手を入れる。指先に陶器の手触り。ううん、今日の人形は貴方じゃないわ。
魔理沙の八卦炉には及ばないけれど、なかなか私も便利な道具を持っている。魔法の品だ。集めるには苦労したけれど、お蔭で幾つもの人形を持ち運べる。空間を圧縮するようなものなので無限というわけにはいかないけれど。魔理沙に狸みたいな猫だなと言われたことがあるが、意味はよく分からない。香霖堂の店主も似たようなことを言っていた。
他方、左手は高く掲げ、人差し指を伸ばし、中指、親指を重ね合わせる。
指を鳴らす。乾いた音が響き、同時に剣を抱えた人形たちが朱い人形目掛けて突進、真一文字に剣を振り払う!
だが、この程度は軽いものだ。ほんの僅かな後退で難なくかわされてしまう。計算尽くだ。素早く二の符を放つ。差し入れた右手で新たに白と赤の格子模様の筒裳を履いた人形を取り出し、彼女の後方へと次々に投げる。投げられた人形は背後で停滞し、剣を翳して急回転する!
「──!」
咄嗟に彼女は前へ。そう、私の方へと飛び出す。その私の後方には青に白と白に赤、二種の格子模様を纏った人形たち。
指を掲げてパチリと鳴らせば、青格子の人形たちに光が集まり、青白い光球を為す。直後、手を振り下ろし、前へ一気に差し伸ばす。一斉に照射される幾条もの閃光!
速い。見事な回避。半身、真横へ逸らしたのみで全ての光条を躱してみせる。すぐに光の斉射は止むだろう。だがそれより早く、閃光を放たなかった赤格子の人形たちが続け様に楔弾を撃ち込む。
光に囲まれて身動きの取れない毒人形へと降り注がれる容赦のない弾幕。
さあ、ここで使いなさい。貴方の切り札、見せて頂戴。
「くっ……こんなことで私は負けないわよ!」
彼女は素直に符を翳した。淡い光を放ち、瞬時に広がる毒霧の波。押し返される閃光と楔弾。そして私の周りに次々生まれる紫の濃霧。
でも、そうね。それで詰みよ。
私も切り札を取り出した。彼女はまるで信じられないものでも見たかのように、目を見開き、驚愕の表情を浮かべている。
今までの符は全てここに至るまでの布石。私の周りには取り巻くように並んだ人形。そして今、その人形たちに再び光が宿っていく!
「目には目を。歯には歯を」
刹那、濃霧が一瞬にして掻き消える。代わりに覆い尽くしたのは光の霧。いや、光ではない。私の周りを回転しながら飛び回る人形たちから打ち出した粒弾だ。あたかも光の粒子がごとく、それぞれが交錯しながら煌き輝く。
「そして、そうね。霧には霧をってところかしら?」
交錯する光の粒はさながら複合十字のよう。ジャックといえば切り裂き狂……いえ、人のことを悪く言うのは今日は止めておこうかしら。そんな冗談とは裏腹に、七色の霧は毒人形をまさに切り裂かんと迫っていく。
対する朱襦人形も懸命だ。光の交差の隙間で、僅かな動きのみで躱していく。が、果たして。残された空間は回避するには余りに頼りない。その隙間さえ、徐々に徐々に光に侵蝕されていく。まさか自分が霧に蝕まれるとは思っても見なかったろう。
廻り廻る倫敦人形。やがて、放たれた一つの弾が紅い小袖の人形を捉える。
「きゃっ──!」
続け様に注がれる光の粒子。
朱襦人形は虹色の濃霧に包まれ、とうとう長きに渡る弾幕勝負は決した。
「に、人形を遣うなんて卑怯だわ……」
口惜しそうに捨て台詞を吐き、失速。鈴蘭畑へと堕ちていく。
「あら? だって私は人形遣いだもの」
勝者には瀟洒なる笑みを。どこかの吸血鬼の犬みたいだけれど、勝手に借りたって別に構わないわよね。減るものじゃないし。
さて、これにて人形劇の終幕と相成りにけり、なんてね。
気付けばもう辺りは次第に翳り始めていた。
「気分が悪くなってきたから帰るぜ……よく考えてみれば私は別に用事があったわけでもないしな」
「案内ご苦労さま」
遠ざかって夕闇に融け往く魔理沙を見送った後、私は鈴蘭畑にくずおれる朱い人形を見下ろす。
「さて」
「うー……」
彼女は相変わらず敵意に満ちた視線を投げ掛けてくる。
「名前を聞かせてくれるかしら?」
小狡猾いやり方と知りながらも、私は散り散りになっていた人形たちを集めて歩み寄る。彼女は人形相手には冷酷になれない。非情になれない。
人形たちに感情はない。でも表情はある。それは彼女の目にはどのように映ったろう? そっと腰を屈める。手を差し伸べる。そこにあるのは、憎むような、戸惑うような、そんな複雑な眼差し。
しばしの逡巡。
ついには視線を逸らし、顔を背け、ぼそりと零すように口を開いた。
「メディスン」
「え?」
予想しない展開につい間の抜けた声を上げてしまった。もしかして、今の……。
「メディスン・メランコリー。……わたしの名前よ」
短く吐いて、彼女は自分で起き上がる。
筒裳の裾を叩きながら、今度は屈む私を見下ろすような形で、
「これで勝っただなんて思わないでよね! これくらいで人形遣いになんて屈しないんだから!」
と、そう吐き捨て、鈴蘭畑の霧向こうへと去って行く。
日は迅うに落ち切り、大地を呑むような静まりきった宵闇が辺りを包み込む。
差し出した手は空しく宙を彷徨うのみ。
結局、彼女が私の手を取ることはなかった。