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Slow tide

 母港へと帰投して、わたしたちは補給を受けるべく、ドックへと向かいます。
 いっしょに演習を行った艦隊の皆さんは、晴れやかな顔をしていました。
 結果的には、わたしたちの隊は戦術的勝利の評価を得られました。相手艦隊の旗艦に対する撃破判定を獲得していたためです。
 その戦果にわたしが寄与できたとは言えません。そのはずです。はっきりしない気持ちのまま、集中できないままで、充分なはたらきができるわけはなかったのです。
 わたしは、わたしの役目を果たせなかった。
 晴れ晴れしい気持ちには、とてもなれませんでした。

 補給を終えて、窓の外では鉛色の雲が空を覆っています。聞こえるのは、地面を叩く雨音だけ。静かな午後。こんなときだから、どうしても考えごとにふけりがちなのかもしれません。
 雨は、長く降り続きそうでした。
「いい雨だね」
 声が聞こえて向き直ると、時雨ちゃんが歩いてくるのが見えました。白露型二番艦。数々の海戦を潜り抜けた武勲艦です。
「やあ、潮」
「時雨ちゃん」
「なんだか浮かない顔をしているね。僕でよかったら相談に乗るけど」
「時雨ちゃんは、艦隊の中で、自分が足手まといなんじゃないかって思ったことはないですか?」
「うーん、足手まとい、かあ」
「足手まといとまではいわなくても、もっと役に立たなきゃ、とかでもいいです」
「潮は、自分が足手まといだと感じているんだね」
「……最近、わたしが被弾して、それで作戦目標を放棄して撤退することが多いような気がします」
「駆逐艦がまともに被弾すれば、中破、悪ければ大破。継戦困難となれば、撤退もまた、妥当な判断だよね」
「それも、分かっているんです。でも、わたしが被弾しなかったら……そう考えちゃって」
「駆逐艦の役割は、機動力を生かして、相手艦隊の砲撃を主力に集中させないことにある。君や僕がちゃんと狙われるっていうのは、君や僕たちがその役目を果たせている証拠だよ」
「それだけじゃ、足りないんです」
「『もっと』役に立ちたい?」
「はい」
「そうか……それは、きっと欲が出てきたんだね」
「欲?」
「そう。欲。今現在に満たされることがない。不満。不足。それを埋めたいって思うのは、欲だと思う」
「不満……」
「あ、いや。それが悪いってことじゃないよ。むしろいいことだと思う。でもね。もしも君が功を焦って気が逸っているんだとしたら、それは、よくないよね」
 功を、焦る。がん、と頭を殴られたような気がしました。
「潮、君はどんな艦になりたいんだい?」
 夕立ちゃんや綾波ちゃんのように、一騎当千の活躍をしたい。
 島風ちゃんのように、疾風怒濤の活躍をしたい。
 でも、それは功を焦っていることに、違いないのでは……?
「ごめん。ちょっと言い方がよくなかったね。でも、僕はやっぱり、君はちゃんと艦隊の中で、駆逐艦としての役目を果たせていると思うよ」
 わたしは首を振ります。
 だって、わたしが自分の役目を果たせているとは、どうしても思えなかったから。
「ごめんなさい。それでもわたしは、もっと艦隊の役に立ちたいんです」
 今度は、時雨ちゃんが首を振りました。
「たぶん、潮は『役に立った』っていう実感がほしいんだよね」
「実感?」
「そう。実感。確かにぼくがどれだけ潮は役目を果たしていると言ったところで、気休めにしか聞こえないだろうと思うし」
「あ……わ、わたし、そういうつもりじゃ」
「ううん、気にしないで。僕だって、同じことを言われたらそう思うだろうなって思うよ。だから、必要なのはきっと実感なんだ」
「でも、どうやって」
「どうやったら、実感を得られるか? それは、君がどうしたいかによるよ」
 どうしたいか。
「たとえば、めざましい戦果をあげれば、それで君は実感を得られる?」
 どうでしょうか。
 わたしには分かっていました。実質の伴わない戦果で、わたしが自分に自信を持てるのかどうか、ううん、持てるわけがなかったのです。
 結局のところ、わたしがほしいのは、戦果ではなくて、戦果に見合う実力です。結局のところ、わたしがほしかったのは、自分の実力についての実感でした。演習で空回りしたのも、自分に実力があると確かめたかったからにほかなりません。
「潮、君はどうしたいんだい?」
「わたしは……」
 答えは出ません。
「なら、潮。君が相談するべきなのは、僕たち駆逐艦じゃない。君が話をするべきなのは、護衛する対象である、航空母艦だよ。彼女たちからこそ、話を聞くべきだ。重ねて言うけど、僕たち駆逐艦じゃなく、ね」
「空母……」
「君なら、翔鶴さんに聞くのが一番いいだろうね。同じ珊瑚海攻略組として、僕から言えるのはそれくらいだよ」


 時雨ちゃんは、別れ際、「君も、きっと僕と同じ痛みを抱えているんだね」って、呟いていました。
 それがどういう意味なのかは、わたしには分かりません。
 ふと垣間見えた時雨ちゃんの顔は、けっして悲しむでも、わたしを哀れむでもなく、ただ静かに笑っていて、わたしにはやっぱり分かりませんでした。
 時雨ちゃんが何を思って、何に悩んだり苦しんだりしているのか、わたしには分かりません。それでもあんなふうに笑える時雨ちゃんは、強い。
 どうしてなんだろう? わたしには、分かりません。
 時雨ちゃんに言われたとおり、わたしは翔鶴さんの部屋までやってきました。
 翔鶴さんは、静かにわたしの話を聴いてくれました。やがて、ゆっくりとわたしに言います。
「潮さんは、しっかり私たちの役に立っているわよ」
「そうでしょうか」
「珊瑚海で私が燃えてしまったときに、潮さんは私を必死に追いかけて来てくれたわよね」
「は、はい」
「あのときの潮さん、島風さんと同じくらいか、もっと速かったかもしれないわね」
 わたしの最大速力は、三十八ノットの設計です。わたしだけじゃなくて特型駆逐艦は皆さんそうですが、以降の初春型、朝潮型、陽炎型はおおよそ三十四から三十七ノットの範囲に収まっていますから——特型以降の駆逐艦は軍縮によってに制限がかかったからなのですが——快速艦の部類に入ると言えると思います。ところが島風ちゃんは、なんと公試で四十ノットを超える速力を記録しています。
 その島風ちゃんに並ぶ速度というのは、つまり、当時のわたしたち駆逐艦にとっての最大限の速度ということになります。
 でも、あのときは。
「わたし、それでも翔鶴さんに追いつけませんでした」
 翔鶴さんが戦闘海域から離脱するとき、夕暮ちゃんが翔鶴さんに随伴していましたが、夕暮ちゃんを突き放す速度で離脱。四十ノットを超えていました。そのままあっという間にわたしを追い抜いて離脱していく翔鶴さんを、わたしも全速力で追いかけました。夕暮ちゃんが『ねえ翔鶴さん何処行くつもりなの? もう着いて行かなくていいよね?』(意訳)なんて発信してきたのを、いまでも覚えています。
「でも、ちゃんと追いかけて来てくれたわ」
 駆逐艦の速度は護衛対象の艦に随伴できるように設計されます。
 翔鶴さんの速力は公試で三十四ノット強。まさか駆逐艦でも追いつけない速度で離脱するなんて、誰が想像できたでしょうか。
「私は嬉しかったのよ。潮ちゃんが追いかけて来てくれて」
「だ、だって、放ってなんておけませんでした!」
「そうね。だからこそ、潮ちゃん。あなたはもっと自信を持って。わたしはあなたに感謝してるんですから。きっと、スラバヤであなたが助けたパーチの皆さんだって、きっと、そう思っているはずよ」
「そう、なんでしょうか。わたしなんかが、自信を……いいのでしょうか」
「ねえ、潮ちゃん。あなたは、いま鎮守府に配属されているたちの中で、あのとき最後まで生き残ることができた十五隻のうちの一隻で、あなたたちは、だれよりもあの戦いを長く見ていられた。あの戦いの最後を見届けることができた」
「だから、わたしは、みんなよりもっとがんばらなくちゃいけなくて——」
「それでも」
 翔鶴さんは、ほんの少しだけ強い口調でわたしを遮って、それから、ほんの少しだけ間を置いて、穏やかに言います。
「あなたたちは……あなたは。潮ちゃんは、そのことに責任を感じる必要なんてないのよ」
「でも、わたしは」
「私ばかりが被弾しても、それで瑞鶴を怒ったりしたことは、ないでしょう?」
 そうして翔鶴さんは、笑ったのです。
 ああ、そうか。
 わたしはそのとき気付いたのです。
 わたしが抱えていた『足りなさ』の正体に。
 翔鶴さんは、五航戦の被害担当艦と呼ばれていました。瑞鶴さんといっしょに出撃すると、決まって翔鶴さんに攻撃が集中したのです。瑞鶴さんが幸運艦と呼ばれた一方で、翔鶴さんは損傷が絶えませんでした。
 珊瑚海でわたしがきゅうきょ瑞鶴さんの護衛にまわったときも、見方によっては、翔鶴さんは瑞鶴さんの身代わりになったとも言えます。そして、その責任を被らされたのは曙ちゃんだったから……。
「曙ちゃんも、わたしの身代わりにさせちゃった……?」
「でも、曙ちゃんは、潮ちゃんのことを責めたりはしなかったでしょう?」
 わたしは頷きます。
「そんなこと、一度もなかったです」
「きっと曙ちゃんも、潮ちゃんのことを恨んだりはしてないわ。たとえば、私だったら……私に攻撃が集中して、それで瑞鶴が無事だったのなら、それでいいのよ。そのことに瑞鶴が責任を感じる必要は、どこにもない。それは潮ちゃんだって、一緒よ」
「でも、わたし、このままでいいのかな?」
 すると、翔鶴さんは、ゆっくりと首を振りました。
「もっとがんばりたいって思う気持ちは、忘れないで。その気持ちは、大切にしてあげて。でも、潮ちゃんは、焦らなくてもいい。そのことを覚えておいて」
「翔鶴さん……」
 わたしの焦燥感が、いったいどこから来ているのか、翔鶴さんには、全部分かっているみたいでした。それだけで、すごく安心したのです。時雨ちゃんの言っていた言葉の意味も分かりました。きっと、時雨ちゃんにも、全部分かっていたのだと思います。あとで時雨ちゃんにも、お礼を言わないと。
「あの、翔鶴さん、ありがとうございました」
「もう、大丈夫みたいね?」
「は、はい。多分……大丈夫だと思います」
「じゃあ、笑って。涙を拭いて」
 そういって、翔鶴さんは、わたしのまなじりにそっと指をはわせて、雫をぬぐいとります。
 そのとき初めて、わたしの頬を涙が伝っていることに気付きました。
「あ、あれ、わたし、何で……」
 翔鶴さんは、首をゆっくりと振って、「いいのよ、潮ちゃん」そういってわたしの頭をそっと抱きしめて、撫でてくれました。ただ、やさしく、静かに。


 それからしばらく、翔鶴さんとなんでもない話をして、やがてわたしが櫂をこぎはじめたので、翔鶴さんは「お部屋に帰ってゆっくりお休みなさいな」って、わたしを見送ってくれて、そうしてわたしは自分の部屋に戻ると、泥のように眠り込みました。
 たぶん、何か夢を見たんだと思いますが、覚えていませんでした。

「ねえ、漣ちゃん」
 食堂で朝ごはんを食べながら、わたしは漣ちゃんとお話します。
「なあに、潮」
「きのうは、ありがとう」
「どういたしまして。元気になったみたいで何よりだわ。潮が元気だと、朝ごはんもメシウマ!って感じよ」
 たぶん、メシウマの意味、違う。そう思いましたが、わたしは触れないことにしました。
「あのね、漣ちゃん」
「ん」
「わたし、分かったんだ。わたしは、焦ってたんだなって」
「……ん」
 漣ちゃんは、黙って聞いてくれます。
「何かが足りないって、ずっと心のどこかに引っかかってる感じがして、このままじゃだめなんだ、もっとがんばらなくちゃ、ずっとそんなことばっかり考えてて」
「潮は、ちゃんと頑張ってるじゃない」
「ううん、たぶんどれだけがんばっても、足りないって気持ちがいつまでも、どこまででも付きまとったと思う」
「もう、付いてこなくなった?」
 わたしは頷きます。
「どうして焦ってたのか、分かったから」
 きっと、あのときわたしに……わたしたちにできなかったこと、果たせなかったことを、今ならきっとできるのに。そう思ってしまうから、わたしは焦っていたのだと気付きました。
 過去をなかったことにはできません。あのときの後悔を拭い去ることはできません。でも、一緒に歩いていくことはできる。
 わたしに足りなかったのは、実感じゃなくて、それを受け入れることだったのかもしれません。今なら、昨日までよりちょっとだけ胸を張れるから。
 前を向こうと思いました。
「そっか」
 漣ちゃんは、笑って言うのです。
「よかったじゃん」
「うん」
 わたしも、笑いました。
「潮は、それでいいんだと思うわ」
「それ、って?」
「潮っぽさ。なんていうのかな。満ちたり、引いたり、それを繰り返して。でもゆっくりと満ちていく。そんな感じ」
「漣ちゃん……」
「な、なによ、私また変なこと言った?」
「ううん、いつも変なこと言ってるから、びっくりしちゃって……」
「ふ、ふん! べつにあんたのことなんて、心配なんてしてないんだからね!」
「漣ちゃん、さすがに今の流れでそれは無理があると思う」
「そうよね。私もそう思うわ……」
「でも」
「うん?」
「ゆっくりと満ちていく……っていうの、なんだかいいね。わたしのお気に入りになっちゃいました」
「ん。家宝にするがよい」
 そうして、ふたりでまた笑い合ったのでした。


 それからわたしは、キス島撤退作戦に駆逐艦部隊として参加して、見事作戦を成功させることができたのですが、その話は、きっとまた、いつか。

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