「右手、大丈夫か?」
虚時間が終わって、淑緒とあのんは商店街の路地に戻ってくる。
虚時間ヘ行って現時間に戻ってくる瞬間は、誰も気付くことができないと言われている。
虚時間のうちに空間的に移動すると、現時間に戻ったときにはいつの間にかそこに立っていることになるのだが、その場所にもともといた人には、あたかも最初からずっとそこにいたように認識されるようだ。
何事もなかったように、現時間の路地に立つ。
「どうってことないわ」
セーラー服の袖は薄く裂け、右脇腹に血が飛び散った跡が見える。誰かが見れば心配するような気がするのだが。
無言であのんは右腕を見せる。
「袖口を掠めただけ。血は、相手の」
白くて細い腕だった。どこにも傷はない。
「あまりじっと見ると、誤解されるわよ」
「え? あ、あー、いや。悪かった」
こほん、と咳払いをし。
「それにしても七瀬も〈語り部〉だったんなら、早く教えてくれればよかったのに」
やや強引に、話題を切り替える。
いや、怪我もなく無事ならば、それでいいのだから。
淑緒の言葉に、あのんは淡々と答える。
「〈語り部〉同士であっても、素性を明らかにするのはタブーよ」
すっかりあのんの様子はいつもどおりに戻っている。ついさっきまで命のやりとりをしていたとは思えないほど、落ち着いた声音だ。
「まあ、それはそうなんだけど。情報共有したり、手を打ててたかもしれないだろ?」
「共有? ここに来たばかりのあなたが、わたしに共有できる情報を持っているの?」
「ぐ……」
淑緒は言葉に詰まる。
無理もないことだ。だが、あのんの言うことは正しい。
淑緒の提案は、いくらなんでも虫がよすぎる。
ため息を漏らして、あのんが言う。
「あなた、首なし犬の話は知っている?」
「首なし犬?」
「やっぱり知らないんじゃない」
「うぐ……」
あのんの声音は、普段と同じ平坦なものだったが、なんとなく咎め立てられているように感じて、どうにもきまりが悪い。
「別に、こちらが知っていることを教える分には、わたしは構わないわ」
「……それはまた随分と優しいな」
「別に見返りを要求するつもりもないから、そんなに構えなくても結構よ」
「何も企んでないのか?」
「事件を解決するのに、足を引っ張り合っても仕方がないでしょう? せいぜいわたしの役に立ってくれることを期待するだけよ」
そのとき、何故だか分からないが、あのんのそのぶっきらぼうな物言いが、言うほど無機質なものではないような気がして。
「なあ」
だから、思わず尋ねていた。
「それって、俺が役に立てるかどうかはともかくとしても、要は協力関係を結ぼうってことだよな」
「……今日はもう遅いわ。明日からのことは、明日話しましょう。また学校で」
あのんは答えることなく、ただそう言って別れを告げる。だが、ほとんど答えているのと同じことだ。
また学校で。
その言葉を噛み締めながら、淑緒はあのんの後ろ姿を見送る。
やがて、夜の帳が降りてくる。
街灯がチカチカと瞬いて、明かりが点る。
「俺も、帰るか」
誰に言うでもなく呟いて、駅へ向かおうとしたそのとき。セーラー服が視界の端にひらめくのが見えた。
輿水高校指定のものだ。
その姿を追って、走り出す。
無意識だった。
角を曲がると、女子学生が路地へ入るのが見えた。
街灯に照らされて、はっきりと姿が分かる。クラスメイトだ。名前は、確か。
「古府さん?」
古府降瑠。
で、間違いないはずなのだが。
「……?」
彼女は、こちらを一瞥しただけで、そのまま路地の奥へと去っていく。
人違いだったのだろうか。
襟足の高さに切り揃えられた黒髪と、処女雪のように白い肌。印象的な容姿だった。見間違えることはないと思うし、間違いないと思ったのだが。
いや。
向こうがこちらを誰だか分かっていなかったのかもしれない。事実、声には反応した。呼ばれたような気がして振り向いても、知っている人間がいなければ、空耳だと思って立ち去る。そういう経験は淑緒にもあった。多分、そういうことなのだろう。
そう思うことにして、淑緒は駅へと歩き出す。
ほんのわずかに釈然としないものを抱えながら。
午前七時四十五分。通学中の車内には、まだ日の低い時間にもかかわらず、乗客の体温で蒸れるような熱気が籠っている。
不快指数の高い空間内で、誰もが不満を抱えながらも、それを表に出すことなく、じっと耐えている。
社会人になれば、この生活が定年まで続く。
社会に出たくないと思う子供が増えるのは、無理もないことだと淑緒は思う。
虚時間に入れなくなって、〈語り部〉を続けられなくなったら、自分はどうするつもりなんだろうか。
今はまだ分からない。
ただ、目の前の任務をこなさなければ、日々の糧を得ることはできない。一介の学生にすぎない淑緒が自活できているのは、〈語り部〉ネットワークの庇護があってのことだ。
まずは、与えられた役割をこなさなければ。
ふと、車内の液晶ディスプレイの映像が目に止まった。今朝のニュースだ。
《読坂市連続行方不明事件に、新たな動き》
その見出しに思わず身を乗り出しそうになる。
映像を注視する。流れるテロップ。
《——読坂市で行方不明になっている男性(三十四歳、会社員)のものと見られる遺体が、昨夜未明、読坂市輿水の住宅街で発見されました。遺体には首がなく、所持していた身分証明書から不明男性のものと——》
映し出された顔写真に、息を呑む。
人面犬の胴体から生えていた首と同じだったのだ。
実際に見たのはもう少し老けて見えたが、間違いない。老けて見えたのはおそらく生気が失われてしまっていたからだろう。それは、そんなに無理のある推論でもない。だが、何故?
何故、発見されたのだろう。
一度虚時間に取り込まれたものが、現時間に戻ってくることはない。
と言われている。
首だけが虚時間に行っていた? なら、行方不明ではなく、最初から変死体として発見されていたはずだ。
可能性に思い至る。確証はない。Ch@ttererを開き、“ゴドディン” へとメッセージを送る。ドルイドたちなら、何か知っているかもしれない。
あとは。
学校に着いたら、あのんにも聞いてみるか。
電車はまもなく、輿水駅に到着する。
朝の教室内は、生徒もまばらで、静謐な空気の名残を感じられる。
ふと教室の入り口に視線を向けると、見知った顔が中に入ってくるのが見えた。
「おはよう、七瀬さん」
教室に入ってくるあのんに淑緒は挨拶を交わす。
だが、こちらをじっと見た後。何も言わずにあのんは淑緒の前を通り過ぎ、窓際の自身の席へと向かう。
明日学校で、って行ったのは七瀬の方じゃないか。
内心で不満に思うが、それを押し留める。
「おっ、依智くん朝早いねー。おはよー」
次に入ってきた別のクラスメイトに声をかけられたからだ。
「おはよう、日々井さん」
「んー。その日々井さんっていうの、イマイチしっくり来ないなあ」
「いや、下の名前で呼ぶのも変でしょ。昨日会ったばっかりなんだし」
「まあ、それもそう? でもそんな感じしないのよね。あーでも、依智くんは下の名前で呼ぶの、あんまり好きじゃないんだっけ」
「苗字呼びのほうが、俺はしっくり来るかな」
そういえば、あのんは頑なに淑緒のことを名で呼んでいた。
何かの嫌がらせなんだろうか。挨拶を無視されたことといい、なんとなく気分が悪い。
「人にはいろいろあるものねー」
「そういうこと」
「いろいろで思い出したんだけどさ」
「ん?」
「今朝のニュース。見た?」
「今朝のって?」
「分かるでしょ? 読坂市連続行方不明事件の、続報——って、ニュース見てないと分かんないのか」
「そりゃそうだ。ま、でもニュースは見たよ。不明者の死体が見つかったんだっけ」
「うん。しかも、首がない状態でね」
そういって、いたずらっぽく笑う。
「趣味が悪いなあ。見たことある人なんでしょ?」
「あれは近所に住んでたおじさんとは別の人だよ」
「そうなんだ」
「まあ、近所のおじさんも……どうなってるものやら」
やけに軽い口調だ。
「ちょっと近くに住んでるだけ、顔を見たことがあるだけの他人だからね。そんなもんだよね」
「怖くはないの?」
「死ぬときは、暴走したトラックにひかれても、通り魔に刺されても死ぬでしょ?」
「それはそうだけど」
やけに達観している。
いや、違う。その可能性すら、考慮していない。
だが、分からないでもない。いちいち死ぬ可能性を考えていたら、不安に押し潰されそうになる。何が起こるか分からない。電車に乗っている最中に突然隣に立っている男が暴れ出して、乗客をメッタ刺しにする。そういうことがありえないと誰が言い切れるだろうか。
「ん。そろそろホームルームだし席戻るね」
「あ、ああ」
席に戻っていく比奈を見送りがてら、教室内を見渡す。あのんは、相変わらず窓の外を眺めているだけだ。
ふと気付く。そういえば、降瑠の姿が見えない。遅刻だろうか。
だが、結局、一限目が始まっても、昼休みになっても彼女は現れなかった。放課後になっても、彼女は来なかった。誰一人、教師も比奈も、最初は疑問に思った淑緒ですら、そのことに言及しないまま。まるで存在を忘れてしまったかのように。
「今朝は悪かったわね」
屋上から見える空は、今日も青灰色ですっきりしない。
「それはいいんだ。でも、学校でって言ったのは、七瀬の方だったと思うんだけど」
「あのんでいいわ」
「じゃあ、あのんって呼ぶけど、だからって俺のことを名前で呼ぶのはなしで」
「淑緒」
「人の話聞いてないな……」
「あなたは転校生。その変わった名前もあって、とても目立つわ。比奈ともよく話している。早くもクラスの中心人物の一人になっている。一方で、わたしはわたしで、クラスの中で浮いている」
確かに、あのんは目立つだろう。逆の意味で。
人を寄せ付けない雰囲気と。誰にしても、何に対しても、無関心、無感動な言動。これで浮いていないと思っているのなら、無自覚にすぎる。
「だから、そんな二人が親しくしていれば、噂が立つでしょうね」
「そうだね……噂になりたくなかったのなら、配慮が足りなかった」
しかし、あのんは首を振る。
「別に、あなたと交際しているという噂が流れたところで、気にしないわ。そんな事実はないのだから。噂が流れて困るのは、他の理由からよ」
そんな事実はないと言い切られるのも釈然としないものがあるし、まるで動じないのも……いや、と淑緒は心の中だけでかぶりを振る。
噂が立ってあのんが動揺するところなんて、想像できない。あのんは続ける。
「昨日、わたしとあなたは口裂け女に顔を見られている。しかも、互いに知り合いであることも、相手に知られたはずよ」
「それってどういう」
「忘れたの? 口裂け女が着ていた服」
「!」
失念していた。
あのとき口裂け女が身につけていたのは、今あのんが着ているものと同じセーラー服だ。血で赤く染まっていたけれど、間違いない。
「この学校の生徒……?」
「今もこの学校に通っているかどうかは分からないけれど。その可能性は、排除できないでしょう?」
一見、断言を避けたようにも取れる。
だが、おそらくあのんは今現在ここに在籍している生徒が口裂け女の正体だと考えている。
あるいは、そう考えた方がいい、と。
「俺とあのんが密に連絡を取り合ってるって知ったら、警戒されるかもしれない」
あのんは頷く。
「とはいえ、まあ、あまり意味はないのでしょうけど」
「そうか、お互い〈語り部〉だからね」
怪承は、もちろん〈語り部〉の存在を知っているだろう。〈語り部〉という噂は、ごく普通に語られている。自分たちが存在するように〈語り部〉も存在するし語リ部も存在する。そのように怪承が考えるのは、何もおかしなことではない。
二人が〈語り部〉なら、学校で親しくなくとも、連絡を取る手段なんていくらでもある。
「それでも、念は入れておいたほうがいいわ」
「分かったよ。学校では、直接話さないようにしよう……って言っても、どうやって連絡を取り合うつもりなんだ?」
「デンワがあるじゃない」
そういって、あのんはデンワのディスプレイを見せてくる。映っているのはCh@ttererのIDだ。
「淑緒のIDも」とあのんに促されて、互いにIDを交換しながら、淑緒は言う。
「その、下の名前で呼ぶの、なんとかならないかな」
何度となく指摘したことだ。
だが、あのんは頑なに、淑緒を名前で呼び続ける。
淑緒の口調には、苛立ちが混じっていた。
あのんは答えない。ただ黙っているだけだ。
表情一つ変えることなく、淑緒の顔をじっと見る。
しばしの沈黙の後で。
あのんが尋ねる。
「そんなに気に入らない? 親にもらった名前なんだから大事にしろ、なんて言わないけれど。悪い名前じゃないでしょう?」
いつもどおりの無表情なのではなかった。
感情一切を遮断した顔だ。それは逆説的に言って不快を表している。人間は、表情筋だけで感情を表現するわけじゃない。
感情の動きのない、無感動、無関心を徹底している……そう思っていただけで、そんなことは彼女の一面に過ぎず、あのんという人物を、表層だけで分かった気になっていただけだ。
そう気付かされても、素直に受け止めるのは簡単なことじゃない。
「逆に、なんでそんなに下の名前で呼ぶのにこだわるんだ?」
だから。思わず、強い口調になってしまう。
それに怯んだのは、むしろ淑緒の方だ。
「……悪い。そんなに強く言うつもりじゃなかったんだ」
あのんは押し黙る。
「気を悪くしたなら、謝る。ただ、嫌いなんだ。自分の名前が」
名前を呼ばれるたびに、それが自分の名前なのだと思い知らされるのが。やがて、ゆっくりと息を吐き出し、あのんが口を開いた。
「……あなたには、これからわたしのパートナーとして戦ってもらうことになる。だから、信頼関係を築かなければいけない。そう思っていたわ。もし、わたしがあなたを名前で呼ぶことで、互いの信頼を損ねるのなら、名前で呼ぶのをやめましょう」
「じゃあ」
「でも、わたしはそれでは不充分だと思っているの」
たとえば、とあのんは続ける。
「あなたのその語リ部としての能力。これは想像なのだけど、あなたが信じていないものからの影響を弱めるんじゃないかしら?」
淑緒は頷く。
「虚時間にいる間は、そこで起きたことだとか、見たり感じたりしたもの、それらを疑うことで、影響を弱めることができる。確かに、俺の能力はそういう力だよ」
「見たり感じたりしたもの、以外はどうかしら」
思わず淑緒は、言葉を失う。
「どうして、そう思った?」
「人面犬に襲われて、あなたは打ち身ひとつせず無事に済んでいる。それから」
淑緒はあのんの言葉を黙って聞いているだけだ。
あのんは続ける。
「人面犬の首の本体の方。現時間に打ち上げられていたわね。あれって、あなたが人面犬の首を視たからじゃないかしら。つまり」
一呼吸置き、
「あなたが虚時間で観測した事象は、現時間に戻ったときに矛盾が起きないように影響を受けている——わたしはそう考えているのだけど」
「それが本当かどうか自信はない。もしそうなら、俺が関わるだけで事件は自然に収束するはずなんだし」
「それもそうね」
頷き、ふと、思い出したように尋ねてくる。
「名前は?」
「……〈恒常心〉」
平常心以上に揺るがない精神。
語リ部の能力には、能力の性質を識別するための名前を与えられる。名付けるのは語リ部自身だったり、〈語り部〉ネットワークだったり、それ以外の誰かだったり、様々だ。淑緒の能力も “ニーベルング” の発行した命名規約に基いて名付けられているが、
「その名前は気に入っているかしら」
「あんまり、ね。ちょっと趣味的すぎると思う」
趣味的というのは、空想趣味が入りすぎているということだ。だが、空想趣味がすぎるくらいでちょうどいいのだろう。識別のための名前であると同時に、使用者が異能の存在を意識できるように、という目的もあるのだから。空想趣味的である方が、これが異能なのだとより強く意識できる。
「そう。好きになれるといいわね」
その言葉の真意は、淑緒には分からない。
「わたしの能力は、〈言霊使い〉。わたしが言葉にしたことを、事象として具現化する力よ。分かるかしら?」
淑緒の答えを待たずに、滔々と述べる。
「あの世界で、わたしが人面犬を斬っても斬っても、全く斬れなかった理由はそれよ。あなたが、わたしの刀を信じることができていなかったから。あなたの力が、わたしの力に干渉していたから」
もしそうだとすれば、あのんと淑緒の能力の相性は最悪だと言える。
「わたしの能力を発揮するには、あなたにはわたしの手の内を知ってもらって、それを信じてもらわないといけない。けれども」
そのとき淑緒は、はじめてあのんの本当の表情を見たような気がした。
無感情なのではなく、揺らがないのであって。
無関心なのではなく、孤高なのであり。
無感動なのではなく、強い意志を持っている。
それがあのんなのだと、そのときに知った。
「わたしは、名前で呼ぶこともできないような相手に、自分を曝け出したくはないわ」
「……分かったよ、降参だ。俺のことは、好きに呼んでいい」
「そう? もっとも、いずれにしてもそうするつもりだったのだけれど」
その言葉に思わず脱力して、ため息が零れる。
まあいいんだけどね、と苦笑しながら、ふと気付いたことをあのんに問うた。
「ひとつ確認してもいい? あの刀は、虚時間の中であのんが作り出したってこと?」
「そう」
そうだとするのなら、鞘を持っていないのも道理だ。
「なるほど。刀で斬っても斬れないから、俺の能力のせいだと思った。どういう能力か。たとえば、他人の能力を弱体化させるとか。そういうふうに想像したってところ?」
ところが、あのんは首を振る。
「昨日、ここであなたに噂に関わるなって言ったのを、覚えてる?」
「ああ」
「にもかかわらず、あなたは虚時間にいた。それで分かったわ。依智淑緒には、言霊が効かない、って」
「ちょっと待った」
それはどう考えてもおかしい。
「まるで現時間でも、能力が使えるみたいな」
「虚時間でなくとも、人の心に働きかけるくらいはできる。気付いてない?」
——この世界はもうとっくの前から、異能であふれているのよ、と。
「それだけ人の心は不確かになった。現実はあいまいで揺らいでいる。すべてこの世界にあふれる噂が引き起こしたことよ」
だからこそ、怪承が虚時間から現時間に干渉できる。
その言葉には妙な説得力があって、淑緒は何も言葉が出てこない。
そんな淑緒の反応に、あのんは満足そうに頷き、微笑んで言う。
「合格よ」
「え……?」
あっけにとられる淑緒に、彼女は言う。
「わたしの言葉を、信じてくれたでしょう? 彼女と戦うときも、そうやってわたしを信じて」