1.
羊街道の西風
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風巫女のエンブレイス

「……ちょっと力を、使いすぎたか?」
 背後にはまだ山賊の気配が残っている。だが、これだけ離れていれば、追いつかれる前にアイネスブリュークの街に着けそうだ。
 と、
「へ、お頭が言ったとおりだ。こいつはとんだ甘ちゃんだな」
 ゼファーの前に、山賊が二人。ひげ面で小太りの男と、痩せぎすで狐のような男。余裕のある物言いの割に、隙はない。どうやら他の山賊より腕は立つようだ。
 この辺り一帯は、道が大きく蛇行している。場所によっては、茂みの中の獣道を使って、経路を短縮することも可能だ。おそらくはここも、そうした地点のひとつなのだろう。山賊たちの、狩場のひとつ。
「なるほど。こういう手口で旅人を襲っては、身包みをはいで、なけなしの路銀を奪う。これだけの大所帯を養うってのは、並なことじゃないってことだろうね」
 剣帯に手を当て、構えを取る。
 狐が、感心したようにほうと息を吐く。
「亜人にしちゃあ、道理が分かるみてえだな。ま、もったいないことにそれも今日までだがな」
 ひげ面が、腰の後ろから湾曲した短刀を抜き、構えた。
 と同時に、ゼファーへと斬り掛かる。
 抜き放つ。疾風がごとき一刀。ひげ面の曲刀が弾かれる。
 続けざま、袈裟掛けに一太刀、切り上げ、薙ぎ払い、一方的にひげ面を追い込む、が、刹那、殺気を感じ、飛び退く。
 眼前を、ナイフが通り過ぎていく。前髪が何本か、はらりと宙を待った。
 二対一は、分が悪い。
 狐が口を開いた。
「どうした、風は使わないのか?」
 否。使えないのだ。
 確かに、風が操れるのなら、投げナイフのような飛び道具の軌道を反らすこともできる。
 なぜそうしないのか。できないからに他ならない。
 ゼファーは “風読み” だ。しかし、彼には言葉通り風を読むことはできても、その流れを自在に操るほどの力はない。せいぜいが、身の回りの風向きを少し変える程度。
 狐が、そのことに気付いたか、嘲笑を浮かべ、言い放った。
「おい、“風読み” のくせに、風の扱いがへたくそなのか、こいつ!」
「傑作だなこりゃーよお!」
「うるさいね。一人じゃ何もできないくせに」
「んだとてめえ!」
「ばかやろう、挑発に乗るんじゃねえ」
 挑発して分断する策も断たれた。狐の方は頭が回るらしい。小手先の策を弄じたところで、あまり期待できそうにない。
 後ろからも足音が響いてきた。
 追いつかれたか。
 これはいよいよ窮地かもしれない、などと、ゼファーは思った。
「そろそろ終幕の時間だ、坊主」
「そうだ、さっさと荷物を置いて寝ちまいな!」
「永遠にな!」
 口々に、けたたましく罵りながら、じりじりと間合いを詰める山賊たち。
 ゼファーは、しかし今なお考えていた。
 山賊に取り囲まれていたあのとき、自らの感覚に間違いがなければ、あの場所には、確かに自分以外の “風読み” がいた。“風読み” 同士は、お互いに、それぞれの風を感じ取ることができる。彼女はおそらく気付いていただろう。酒場で顔を合わせたときには、既に。あるいは、それより前からかもしれない。
 あたりに、風が吹く。
 翡翠色の、風。
 北から、南から、東から、西から。あらゆる方角から。
「だから言ったではないか。はじめから私に任せておけば、山賊ごときに遅れを取るなど!」
「何だ、これは……!」
 山賊の一人が、突風にあおられて吹き飛ぶ。別のものは、つむじ風に巻き込まれて、まるで紙くずのように軽々と舞い上がり、ほどなくして地に叩きつけらる。疾風に足元をすくわれ、体勢を崩して倒れるもの。烈風にその身を切り裂かれるもの。豪風に押し潰されるもの。ありとあらゆる風が、まさに暴力的に、山賊たちをする。
 あっという間のことだった。
 二十を数えた山賊らが、今は指折る程度。
「《》……!」
 恐怖に青褪める山賊。
 ひげ面も狐も、みな。
 リーダー格たる隻眼さえも、圧倒的なまでの力の差に、としている。
 エアが、ゼファーの傍らに立つ。ゼファーが問うた。
「いつから気付いて?」
「酒場で見たときからだ。“風読み” は同胞との繋がりにはい……違わぬだろう?」
 ゼファーも、思わず苦笑するよりほかはない。
「さあ、大人しくね。さもなくば、ここで散るがよい」
 翡翠色の風が、エアの身体へと集まる。
 色を持った風は、“風読み” の中でも特に力が強いことを示している。それを自在に操るエアのその力量が、どれほどか。
 エアと自身の力を比べるなど、まさに愚の骨頂。
 ゼファーは自重気味にひとつ鼻を鳴らすと、もう一度剣帯に手を添える。
 おそらく、この山賊たちは、ここで逃げ去ったりはしまい、と。
 隻眼が、背中から手斧を抜き放った。
 両の腕に、の刃。
「これで終わっちゃいねえ。ここで終わるわけには、いかんのだ……!」
「悪あがきを」
 エアが左手を掲げる。風が集う。
「させるか!」
 隻眼が、手斧を振るった。
 否。手斧を、投げ放った。
「っ——!」
 回転しながら空を裂く手斧。
 エアは、もちろんそれを予想できていなかったわけではないだろうが、しかし、ほんの一瞬だけ反応が遅れた。頭を狙う、致命的な一撃。
 地を蹴る。身は低く、風がごとく。駆けるゼファー。
 剣帯から、虚空を舞う手斧めがけ、黒金の一刀を抜き放つ。らしきれず、肩口を浅く裂かれる。と、そのとき、ぶつと革紐が切れ、肩から提げていた届けるべき荷物が、地に落ちる。
 しかし、その一刀で、エアの準備は整った。
「私が《風葬り》と呼ばれるを知れ!」
 エアの周囲を渦巻いていた風が、掲げた左手に収束していく。翡翠色に輝く、圧縮された大気の塊。それを、解き放つ。三百六十度、波動が広がる。途方もなく大きな圧力。空気の壁が、山賊たちを吹き飛ばす。
「ぐっ」
 戦いにおけるシンプルな解答。
 強い者が勝つ。
 場を支配するのは圧倒的な暴力。まだ終わらない。
 衝撃波が薙いだ地を、放射上に疾る風。
 鎌鼬が空を滑る。太刀風が虚を斬り裂く。
 風の十二方位。
「ば、化け物……」
 風が止んだ後、山賊は、誰一人として立ってはいられなかった。
 繁る木々その枝は折れ、裂け、地面はめくれ、抉れ、一帯はひどく荒れていた。
 エアの立っていた周囲を除いて。
「そうだ、竜の卵! 卵は、無事なのか……!?」
 ゼファーの落とした荷袋へと、エアが駆け寄ってくる。
 竜の卵。
 かつて世界を支配したといわれる、竜。もう彼らはこの世にはいない。爬人や大爬のような、竜の子孫と思われる生物が、そのわずかな名残だ。
 その卵を、彼女は求めていたのか。……何のために? それは分からない。
 けれども、エアが頑なにこの依頼を受けたがっていた理由は、つまりは、竜の卵を探していたからか。ゼファーはにわかに、理解に至る。
 呆然と立ち尽くし、やがて、エアが呟く。
 落ちたときの弾みで口を縛っていた紐が緩んだか、中身があらわになっている。
「……いや、違う。これは……竜の卵じゃない?」
「これは……種だ」
 茶褐色の、ごつごつした楕円形の塊。植物の種にしては、かなり巨大ではあるが、その形は確かに種のようだった。
 周囲に漂う甘い香り。
「この匂い……」
 ゼファーは、ふと思い出す。
「知っているのか?」
「幻惑の秘薬の材料……実際に嗅いだことはないんだ。ただ、聞いた話によく似ている」
 甘い花の香に引き寄せられ、匂いを深く吸い込むことで、その者の意識を狂わせる薬。一時的にではあるが、痛苦や倦怠を感じなくさせ、代わりに昂揚感と浮遊感をもたらす。だが、同時にそれは精神を蝕み、正常な感覚を失わせ、幻覚や幻聴をも与える。論理思考力を鈍らせ、判断力を奪う。奴隷の洗脳や調教に使う薬だ。
 黒大陸に生息する巨大な植物の種子が材料として使われる、らしい。黒大陸には、レペンチア地峡を抜けるか、シェラブ半島南端から航路で海峡を越えるか。いずれにせよ、黒大陸からもたらされるものは、何であれ交易協定で無断での取り扱いを禁じられていたはずだ。
「これを……届ける……」
 顎に手を当て、エアはしばし考え込む。
 ゼファーには、彼女が何を考えているか、なんとなく想像できていた。
「これを届ければどうなると思う?」
 エアが問うた。
 しかし、ゼファーは答えない。じっとエアの瞳を見据えるのみ。
「届ける相手がいるということは、その相手がこれを欲しがっているからだ。欲しいとはどういうことだ? それが道具ならば、使いたいということだろう。これを使う? これを使うだって? どういうことになると思う!」
「それでもおれは、こいつを届けなければいけない」
「苦しみの種を蒔こうと言うのか!」
 叫ぶエア。
 しかし、それでもなお、ゼファーは応じない。首を振って、静かに答える。
「おれは、任された依頼は果たすんだ。それが “猟人” だ。たとえ、どんな依頼であっても」
 立ち尽くすエアを残し、ゼファーは街道を往く。


 種子が放つ甘い香り。まるで花のようだ。
 嗅いだことがない、というのは嘘だった。
 もちろん薬を使ったことがあるわけではない。ただ、ゼファーはその匂いを知っていた。強く吸い込まない限りは、それほど精神に影響をもたらさないことも。
 黒大陸で育つ植物とはいえ、決して蕗州に生えないわけではない。自生するには環境が適さないだろうが、栽培できないほどではなかった。
 この植物がいつもたらされたかは知らないが、一度海を越えるか、地峡を抜けさえすれば……後は言うまでもない。
 蛇足だが、おそらくはシェラブ半島を経由して運ばれてきたのだろう。聖王国とアマルテア王国との宗教対立は、交易の上では深刻な問題だ。国境を越えるためには、関を抜ける必要がある。荷を検められたとき、果たしてどのようにごまかすというのか。
 違法な薬物の材料だとはいえ、栽培することで生計を立てるものがいる。そこに暮らしがあるのだ。生きるために仕事をすることは、罪だろうか。彼女が罪人ならば、“猟人” もまた然り。ならば、ゼファーは “猟人” らしく、“猟人” としての任を全うするだけだ。
 依頼が失敗すれば、信用を失った彼女は行き着く先は……例えば、街娼か。宿場町ならば、充分な需要がある。生きてはいけるだろう。それもまた、世の定めかもしれない。


 アイネスブリュークへと至る。石造りの景観が美しい街。
 この街まで来ると、そこはもう東方領、王制エステルライヒである。とはいえ、旅人たちにとっては、ここがアマルテア王国であるか、エステルライヒであるか、ということは些細なことだった。話す言語もよく似ている。
 しかし政治のこととなれば、話は変わってくる。
 アイネスブリュークは、錬金術の街である。金属の精錬や加工、薬物の調合といった工技術の発達した街。職人たちは王の勅令で鎚を振るう。アマルテア王ではない。エステルライヒ王の勅令で、である。この街が、工技術という点で、どれほど重要であるかは、推して知るべしというところだろう。
「警士も巡回してる。流石に用心深い」
 ゼファーはひとりごちる。
 やがて、目的の路地へと辿り着く。
 表立って取り引きのできない物品。後ろ暗いことがあるから、路地を使う。
 路地の奥に、黒装束が立っていた。
「あんた、パスカッシオにいたのとは違うよな」
「なんのことだ?」
「まぁ、自分で運べるなら金出してまで依頼しない……それより、これが約束の品だ」
 布袋を差し出す。
「確認しよう……ふん、確かに」
 黒装束は、荷を確認するなり、ゼファーに書状の入った封筒を渡す。
「中身を見させてもらうけど?」
「好きにしろ」
 封蝋を外し、広げる。
 小麦手形だった。依頼主に宛てたものであることを示す印が切ってある。
 手形は、予め支払っておいた額に応じて、後から品物と交換するための証書である。証書に書かれた額面は、支払能力を失わない限り、いかなるときも効力を発揮する。現品を持ち歩くよりも遥かに軽く済むし、品を売る側、つまり金を受け取る側としても、即決で現金を手に入れておいて、後から品を渡すことができる。支払う側も、荷が軽くなるというだけでなく、相場の変動を見て好きなときに品と取り替えることができる。
 ゼファーは、それくらいの知識は持っていた。ただ、商人としてやっていくには、まずその出自がになる。もちろん、なるつもりもないのだけれど。
 確認し、満足げに頷く。
「うん。確かに。受け取った……」
 と、そのとき、路地に凄まじい突風が吹き荒れた。
 黒装束が、バランスを崩す。
「ぐっ」
 ゼファーは、そのときほんの少し足を出しただけだった。それで、黒装束の足は地を離れ、身体が宙を舞う。布袋が、宙を舞う。
「貴様……!」
「いやあ、今日は風がお強いですね。荷物、落とされましたよ」
 などと白々しく言ってのける。
 もちろん、ゼファーが吹かせたのだ。
 細かな制御ができないというだけで、充分集中すれば、意図的に風を起こすことが全くできないわけではない。風の通り道の決まっている路地に、突風を吹かせる程度なら、それほど難しいことではなかった。もっとも、ゼファーにとってはそれすら充分な集中が必要な作業ではあるのだけど。
 風は路地の奥に突き当たり、大きく弧を描いて向きを変え、今度は路地の外、通りへと抜けていく。
 種子が放つ甘い香りを乗せて。
「バウッ、ワッ、ワッ」
 通りのほうから、犬が吠える声が聞こえる。匂いに釣られてやってきたのだろう。犬の嗅覚は、人のそれとは比べものにならないと言う。
 続けて、男の怒声。
「お前たち、そこで何をしている!」
 警士と、犬が、路地へと駆け込んでくる。
「取引禁止植物の疑いがある! そこを動くな!」
 身をすゼファー。
「おれは関係ないぜ! そこの人が風にあおられて、持ってた荷物落としてたけど!」
 言いながら、駆け寄る警士のわきをすり抜ける。
「な……くっ、誰か、そいつを逃がすな!」
 警士が連れていた犬が反転、ゼファーへと追いすがる。しかし、風に乗ったゼファーの足に敵うべくもなし。
 風を背に、ゼファーは街路を駆け抜ける。


 パスカッシオの町は、今日も行き交う旅人たちでにぎわっていた。
 酒場もまた然り。店内は、また取りとめもない噂話で盛り上がっている。
 酒場の店主へと小麦手形の入った封筒を渡し、引き換えに報酬を受け取ったゼファーは、“猟人” あふれる酒場を後にし、町外れを目指す。
 日当たりのいい場所に、畑があった。
 ストロベリーブロンドの髪の、花売りの少女も。
「……何しに来たんですか」
 しかし畑は焼き払われた後で、ただただ茶に焦げた地面が広がるばかり。
「警士の方が来て、畑を焼いていったんです。『取扱禁止植物の疑いがある』って。何も知らないって言ったら、放っておかれたわ」
 ゼファーは、答えない。答える代わりに、貨幣の入った布袋を差し出す。
「何ですか、これ」
「このお金で、もっといい商人と取り引きすればいい。薬の材料なんかじゃなく、本当に花を育てて。きみはそれができる」
 しかし、フロルは受け取らない。受け取らず、俯き、肩を震わせ、呟く。
「……あなたに……何が分かるっていうのよ……」
 そして顔を上げ、叫んだ。
「勝手なことしないでよ! あなたに何が分かるっていうの!? あなたに私の気持ちの何が……!」
 ゼファーは、やはり答えない。ただ彼女の足元に、硬貨袋を置いて、その場を去る。
 フロルは、ただを漏らすのみ。


 しばらくして、フロルが顔を上げると、そこには碧の髪の少女が立っていた。
 エアだった。
「自由を手に入れた。何が不満なものか。お前は恵まれている。恵まれているのだ。それなのに」
 静かな、口調だった。淡々と言葉を紡ぐ。しかし、それは明確にフロルを責めるものだった。
 時間が空いて、冷静になったか、フロルはエアの言葉を受け止め、考える。
「……急に、こんなことされても」
 自由になったからといって、何をすればいい。これからどうすればいい。これまでの暮らしは? それで充分だったのだ。それなのに。
「愚かだな。思うままでよいと気付かぬか。一度考えてみよ」
 エアはそう言って、立ち去る。
 考える。考えている。分かっている。
 けれど、自由だと言われても、これまでの暮らしで充分だったのだ。
 充分だった。
 本当に?
 あの薄暗い路地が、私の全て?
 フロルは自身に問う。いや、問うまでもなく、分かりきっていたことだ。
 これでいいと諦めていただけだ。充分なはずがなかった。
 いやらしい目付きで身体をじろじろと眺められ、ときには汚らしい手で触れられることさえ。耐えてきた。何も感じない。心を止めていれば、すぐに終わる。こうしていれば、薄暗い社会に生きる商人が寄ってくる。彼らは欲しがるだろう。故郷から持ってきた、秘薬の材料。奴隷を意のままにできる。彼らは、それを高く買ってくれた。それで生きていけた。
 ……私はそんなことがしたかったのだろうか?
 フロルはひとり、考える。


 パスカッシオの門に、静かに優しく、風がそよぐ。
 ゼファーは、門の外に立ち、傍らのエアにふと話し掛けた。
「きみには世話になったよ。あのとき助けてくれなかったら、ぼくは死んでいた。ありがとう」
「いや。私のほうこそ……お前のことを、見くびってすまなかった」
 エアは、頭を下げる。
 髪が陽光を浴び、翡翠色にきらめく。ゼファーは素直に、その色を美しいと感じた。
 頭を上げる。そして、上目遣いで問うた。
「許してくれるか?」
「許すも許さないも。おれはなんとも思っていないし、命の恩人に感謝こそすれ、恨む道理なんて」
「……ありがとう」
 はにかんでいうエアの顔を、直視できず、ゼファーはつい顔を背けてしまう。
「……竜の卵、見つかるといいね」
「ああ」
 結局、なぜエアが竜の卵を必要としているのかは、ゼファーには分からなかった。分からなかったが、旅の目的など、旅人の数だけある。そういうものだ。
 目的が違えば、行き先も違う。出会いも別れも、旅人の数だけある。
 そういうものだ。
「また会おう、ゼファー。旅往く道によい風が吹くことを祈ろうよ」
 ゼファーは頷き、応える。曖昧に笑んで、エアは去って行く。
 その背を見送り、ゼファーもまた、パスカッシオを去ろうと、一歩踏み出す、そのとき。
「待ってください!」
 町の方から、澄んだ高い声。
 足音。
 やがて、彼女がやって来た。
 ストロベリーブロンドの髪の、花売りの少女。
 フロル。
 彼女の方へ、向き直る。
 息を整えるまで、待つ。けれどもフロルは、膝に手をついたまま、息を切らしたまま、顔を上げ、言う。
「……お礼、ちゃんと言いたくて」
「お礼?」
 尋ねると、フロルは頷いて、
「私、これからもうちょっと頑張ってみるから。それを伝えたくて。今のままじゃいつか駄目になるって、分かってた。分かってたけど、目を背けてた。気付かない振りしてたの。でも、できるって。変われるって。教えてくれたから。気付かせてくれてありがとうって」
「ありがとう。そんな大層なことじゃないんだ。そうしたかっただけで。……でも、そう言ってくれたなら、おれは嬉しいと思う」
 ゼファーは、それから再びパスカッシオに背を向けると、静かに歩き出す。
 一歩ずつ、街道を。
 小さくなるその背中に、フロルが声を掛ける。
「旅往く道に、いい風が吹きますように!」

 羊街道を、西風が優しく吹き抜ける。

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