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第2章 長いプロローグのそのあと
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異世界の神になってちょっと立地見るだけ

18. 神の目覚め

 目が覚めると真っ白な天井だった。
 背中にはやわらかい感触がある。ふかふかのベッドだ。
 あー。だめだ。この快適さを味わうともうあの硬いベッドに戻れない気がする。
 っていうか実際よくやってたよね。あの水準の生活を二か月ほど続けてたんだよな。
 食事にはあまり不満がなかったので、まだ良い方だったとも言えるけども。
 ともかく、二か月ぶりの空中回廊だ。
 身体を起こしてみる。
 何ともない。
 無事だ。
 なんだ無事じゃん。
 無事なら能力使えなくなった時点でさっさと死に戻りするべきだった。いや無事かどうか分からないからこそ安易にデスルーラできなかったんだけどね。
 無事じゃなかったらどうしようかと思ったけど。
 よかったよかった。
 ともあれデスルーラできるって分かったら少し安心感が出てきた。
 危機的状況に陥っても死ねば助かる。

 うん。ないな。ない。

 死に対する恐怖って、そこでもう何もかもが終わって、その先は何もないという、ただそれだけに起因するわけじゃない。もっと即物的な恐怖がある。
 死ぬのは痛いんだろうか、苦しいんだろうか。
 どうせ死ぬのなら苦痛のない、楽な死に方をしたい……人は安らかな最期を願ってきた。俺だってそうだ。どうせ死ぬなら、穏やかな終わりの方がいい。
 けれども、実際のところ危機的状況下で死ぬっていうのは要は殺されるってことなので痛くないわけないし苦しくないわけもない。そんなのやだよ。
 ただ、死の間際の苦痛に目を瞑れば、死んでもやり直しが効く。苦痛がデスペナだと思えば……いやいや。
 死ぬような思いをしてまでやることだろうか。
 別に死んでも構わないと思う気持ちと、いややっぱり死ぬのは痛いし苦しいのでいやだよという気持ちがせめぎ合っている。
 死んでもいいと思えるのは既に死んだ苦痛というのをあまりよく思い出せなくなっているからだ。
 喉元をすぎれば熱さを忘れるとはよく言う。
 そういえば身体的な苦痛というのはあんまり記憶に残らないような気がする。それよりはそのときに味わった恐怖だとか、もっと精神的なものが後を引くというか。
 怪我は治ったらそれで済むけど、心に負ったダメージはなかなか癒せない。そういうことなのかもしれない。

「目が覚めましたか」

 ふと、思考を遮るように声が掛かる。
 声のするほうを見ると、ベッドの傍らにアンネが立っていた。いつの間に。
 思考に没頭していたからというより、まるで気配がなかったような気がする。
 いや。
 しばらく下界に降りていて気配に敏感になっただけなのかもしれない。
 そう考えると俺の適応能力ってめっちゃ高い。
 びっくりだ。

「なんか久しぶりに会う気がする」

 アンネルーリエンルルナネルリルーネリアンルルアンネ(ちゃんと最後まで覚えている。えらい)通称アンネ。
 久しぶりに見るからかもしれない。
 久しぶりに見た彼女は、目が覚めるような美人だった。
 真っ白な髪。月並みな表現で言うと絹糸のような、だ。肌もまた雪のように白い。青い瞳は底が見えなくてじっと見ていると吸い込まれそうになる。

「トールさまの時間感覚なら、実際久しぶりだと思いますよ。わたしにとっても、こうして直接話すのは久しぶりです。とは言っても、わたしはトールさまにずっと呼びかけていましたが」

 え?

「いや、全然聞こえなかったけど」
「かと思います。わたしにはトールさまの声は聞こえていましたので、相手に自分の声が届かなくなっているのだと推測しました。Skype で通話中にときどきそういう事態になるので、すぐに分かりました」
「異世界人でも Skype するんだ」

 っていうか誰と Skype したんだろう……。
 いや、そんなことはどうでもいい。
 俺の声が聞こえてた?

「トールさまって、存外寂しがりなのですね」
「え、あ、いや、ちょっと待って」

 超絶嫌な予感がするぞ。

「アンネがいれば突っ込みを入れてくれるのになあ。さみしいよね」
「やめろ」
「アンネにやさしくしてもらうことを考えたらちょっと元気が出てきた。なんだかもうちょっとがんばれそうだ。絶対がんばれがんばれしてもらおうな」
「やめなよ」
「はい」

 つらい気持ちだ。
 穴があったら入りたい。

「そ、それはともかく、だ」

 話題を変える。

「どうして急に世界間通信ができなくなったんだろう。あとも開けなくなったし、『遠見』もできなくなった」
「『意思の疎通』はできたんでしたね」
「そうなんだよね」
「トールさまの声が聞こえなくなったのは『遠見』を急に中断したときですから、そのときに一時的に神の奇跡が使えなくなったんだと思います。処理負荷が高くなって、トールさまの身体が耐えられなかったからだとは思うんですが」

 処理負荷。そういうのもあるのか。
 というかそういうのは先に言っておいてほしい。

「一時的に使えなくなったのは、まあ分かる。でも、どうしてずっと使えないままだったんだろう」
「復旧するときに、神の奇跡の構成が変わったのではないかと思います。ええと、そうですね。いまってを開けますか?」
「え? ここでも開けるの?」

 アンネは頷く。
 そうだったのか……。
 じゃあ使う意味ないのでは。
 と思ったけど、そうか、を開くのにいちいち能力を使うより、備え付けの設備を使ったほうが楽だもんな。階段昇り降りするのとエレベータ使うのの違いみたいなもんだろう。
 とりあえず。
 試すだけ試してみよう。
 開いてくれー。

「開けないみたいですね」
「もともと開けないってオチはないよね」

 アンネは黙って目の前にを展開する。

「おー。ちゃんと開けるんだ……」

 何もない空中にぽっかり穴が開いて、内側に歪んだ空間が広がっている。いつ見ても妙な光景だ。シャルが怖がるのも無理ない。

を開けないと世界間通信の経路を通せませんから、『神託』も使えないということですね」
「そうか。同じ原理なんだっけ」
「はい。でも一番簡単な力のはずなんですけどね」

 そういえばそういうことを言っていたような気がする。

「ですが、逆に言えば、神の奇跡の特性が大きく変わっていると言えます。つまり、失われた力の分、他の力が強くなった、と」
「他の力って『意志の疎通』くらいだけど」
「そうですね。でも、おかしいと思いませんでしたか?」
「何が」
「本に書かれた文字を認識するのに、『意志の疎通』の力が働くというのは、不自然でしょう」
「!」

 言われてみればそうだ。

「確かに、誰ともコミュニケーションを取っていないのに、なんで『意志の疎通』の力が効くんだ……?」
「はい。ですから、それは『意志の疎通』ではない、ということになります」
「待って待って、だからそういうのは早く教えてって」
「必要なときにその都度お教えすればよいかと思っていましたので」
「それは前も聞いた気がする」
「それに、こんなことって滅多にありませんから。わたしもびっくりしているくらいです」
「神の奇跡の構成が変わることが?」

 アンネは首を振る。

「トールさまをこの空中回廊に呼んだとき、トールさまの持っている神性というのは、程度。トールさまの国の言葉なら、雑魚神様ですね。その水準しかありませんでした。これは、トールさまに限らず、こちらに呼ばれたは皆そうです」
「ちょ、ちょっと待って」

 一気にターム増やすのやめてほしい。

「神の格付けみたいなのがあるなら、先に」
「ですから、神性がこれほど著しく変わることなんて滅多にないんですってば」
「そ、そうだった、ごめん」
「わたしも驚いているんです。いろいろ調べましたし。でも、そのおかげで分かったんですけど。トールさまは、もはやではありません」
「つまり、神としてのレベルが上がった?」
「いえ。文字通り格が違います。トールさまに分かるように言うと、そうですね……上級職にクラスチェンジしたという感じでしょうか」
「なるほど分かりやすい」

 単純にレベルが上がるのとクラスチェンジするのだと、たいていのゲームは後者のほうが劇的に性能が向上する感じになっている。ステータスアップに留まらない、あたらしい特殊能力の習得だったりとか、そういうものを含むことが多いからだな。

「そうか、凡神のレベルじゃないくらいの神の奇跡を身につけたってことか」
「そのとおりです」

 ワクワクしてきた。
 が、アンネはなんだかとても言いにくそうにしている。

「そのとおりなのですが、ええと……わたしも最初は信じられなかったんです」
「もったいぶらずに話してよ」
「聞いても驚かないでくださいね?」
「驚かない驚かない」

 するとアンネは、諦めたようにか、覚悟したようにか、深く呼吸をし、それからゆっくりと口を開いた。

「トールさまが身につけられたあたらしい神の奇跡は『完全言語』。

 この奇跡を有していたのは、これまで伝説で語られる『言語の神』だけとされてきました。つまり」

 そこで一呼吸置く。

「トールさまは汎世界で唯一の『言語の神』になりました。おめでとうございます」
「……ええと」

 困惑する。
 正直ピンとは来なかった。
 それがどれくらいすごいのか測るための尺度を持っていないからね。

「それ、すごいんだ」

 ポカポカ殴られた。

「——!! ——!!」
「お、落ち着こう、な? 悪かったから」
「トールさま、しばらく会わない間にずいぶんと意地が悪くなりましたね」
「いやアンネずっと俺の声聞いてたんじゃ」
「トールさま少しうるさいです。今はそういうことを言っているのではありません。今のは驚くべきタイミングです。仮にピンと来なくても驚いた振りをして場を盛り上げるところでしょう。空気読めないんですか? だからぼっちなんですよ」
「そこまで言うことないだろいい加減にしろ!」

 アンネを見るとてへぺろ顔だった。
 やべえ、キレそう。

「まあ、トールさまがピンとこないのも無理ないですからね。でも本当にすごいことなんですよ。トールさまに分かるようにトールさまの世界の神にたとえると、無名の精霊がある日突然知恵の神トートになったようなものです」
「最初からそういうふうにたとえてくれ」

 さすがにそう言われると分かるんだけど、トートというのが絶妙なところだ。
 トートはエジプト神話の神で、ヒエログリフを発明したと言われている。
 すごい神なんだけど、どうも太陽神ラーとか、水の女神ヘケトとか、そのあたりに比べると知名度が低いような気がする。まあマンガとかゲームみたいなフィクションで言及されて露出の多い神と比べると、ってところなんだろうなあ。
 ただし、知名度はともかく、実際の格は高い。
 古代エジプトでは広く信仰されてきたのである程度の大きさの神殿になるとトートのための神殿を設けて合わせて祀ったりするし、ラーやイシス、オシリスらと並んでヘリオポリス九柱神に含めることもある。
 実際すごい神である。
 ただ。

「すごさはわかったけど、あんまりピンと来てないんだよな。複数の言語を理解するのって、勉強したらできるようになるよね」
「そうですね。でもトールさまは、ごく短い期間のうちに理解できるようになりました」
「時間感覚を引き伸ばしてここで勉強すれば身につくのでは……」
「……」

 どうしてそこで黙るの。

「わ、わたしはあくまでえとして、無名の精霊が神話レベルの神になったっていう話を」
「分かった。その神話レベルっていうのがよく分からないんだ。たぶん地球人と悠久人だと物の尺度とか価値観が違うんじゃないかな」
「それはそうかもしれません」
「でしょ」

 何をすごいと思うのかはひとそれぞれだ。

「ただ、トールさまが手に入れた『完全言語』というのは、本当に神話レベルの力なんです。すごいんです」

 すごいって言われても。

「さっきから気になってたんだけど、神話って、悠久人にもあるの?」
「ないですよ。神話は下界の概念ですから」
「逆に下界から見ると悠久人っていうのは神に当たるんじゃないの。そうすると悠久人にとっての伝説や伝承はそのまま神話になるような」
「そうかもしれませんが、わたしたちは神ではありません。自分で自分たちのことを神なんて呼ぶのは、少し滑稽にすぎますし」
「神の奇跡を行使できるのに?」
「それはそれです」
「適当だなあ」
「トールさまの国でも、人間離れした技量を神業と呼んだりするでしょう?」
「言われてみればそうなんだけど」

 釈然としない。

「そもそも、神話というのは信仰対象を擬人化した物語のことですし。わたしたちの信仰の対象は、わたしたち自身ではないですから、わたしたち自身の持つ伝説を神話と呼ぶのは違うと思います」
「なるほどね。ちなみに信仰対象っていうのは?」
「素数です」
「そうなんだ」

 へえ、素数。

「うん? なんだって?」
「正確には、数という概念を信仰しています。わたしはそのうち素数を主に信仰しています」
「なんでまた、素数を」

 信仰は自由だと思うけども。
 世の中には存命中の人物を神として崇め、その人の身につけていたものをご神体として祀る文化もあるし。
 俺もシャルを天使として信仰している節がある。
 実際天使だしね。

「素数は、1 とその数自身でしか割ることのできない数ですから、それ以上小さくすることができない最小の要素ということですよね。わたしたち悠久人にとって、それ以上分かつことのできないものというのは、絶対に揺らぐことのない拠り所になります」

 そういえば。
 アンネの長い名前、切るところがないと言ってたような。
 切るところがないというのは、それ以上分解することができないということだ。
 ただ、実際のところ素数をそれ以上分解できないということはない。素因数分解できないだけなのだから。小数や分数を使えば更に小さく分解できるのだし。
 アンネの名前もそうで、おそらくは何かしらの要素を組み合わせてできた名前なんだと思う。
 でも、「素数 7 は 1 と 2 と 4 の和である」と表現したところで、特に意味はない。地球の数学では特別な意味を見出さない。
 悠久人はどうか知らないけれども。
 それでもアンネは自分の名前をそれ以上分解できないと言っていたのだから、複数の要素からなるものでも、何らかの規則で分解できないものは、それ以上分解できないとみなすんだろう。たぶん。
 そういう信仰は、理解できなくもない。

「それにしても、素数ね。なんかよさそうっすね」

 よさそうっすね。
 よさね。

 なんつってな。

「トールさま……」

 よさのなさにアンネが哀れみのこもった目を向けてくる。これだよ! この視線!
 おおよそ二ヶ月ぶりの乾いた視線! 英語で言うとドライ……いやドライアイは関係ないな。

「それにしても、二ヶ月ぶりかあ」
「何がですか?」
「こうしてアンネと話すのが」
「二ヶ月……? ええと、ひょっとしてトールさま、どれくらい時間が経っているかお分かりでなかったですか?」
「え?」
「ああ、ええと、そうですよね。ずっと意識がなくて寝てましたし、無理もありませんね」
「ちょ、ちょっと待って」

 寝てる間にもしかしてめちゃくちゃ時間が経ってる?
 いやでもさすがにそんなに何日も寝て……いやこの空間では意識体なので代謝は起こらないし生理的欲求も抑制されるんだった。

「何日くらい寝てたの?」
「何日? いえ、違いますよ」

 アンネは首を振る。

「トールさまがここで意識を取り戻すまで三ヶ月余り。つまり、わたしと話すのはおよそ半年ぶりになります」

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