ワレシュティ・シャルティレーエト。
わたしのあたらしい名前です。きょうからこう名乗ることになりました。
ワレシュティというのは、ワレシュティの森……だけじゃなく、ニルシュヴァール南西平原を含めた一帯をまとめた、ワレシュティ租界のことを指します。
租界というのは、無期限で租借地として貸し出される領域のことで、租借地というのは、租税を納めることによって統治権を譲り受けることができる領域を言います。
租税を納めることによって半永久的に統治できる、事実上の割譲でした。
わたしの名前の前に、姓としてワレシュティを冠するのは、つまり、わたしがこれからワレシュティ租界の領事になるからです。
ワレシュティ租界の領事シャルティレーエト。そういう名をこれから名乗ることになります。
うう、あらためて胃がきゅうと縮む感じがします……。
領民の皆さんはどう考えているのでしょう。
ニルシュヴァール南西平原は開発がまだ進んでいませんから、ここに住んでいる人もいませんでした。
けれども、ワレシュティの森には、以前から木こりや猟師の皆さんが住んでいます。
森に住む皆さんは、森の統治権がニルシュヴァールからワレシュティに移り変わったのでこれからはワレシュティの民です。
移住する権利はあるのですが、森に住む皆さんにとって、森以外で仕事をするというのは、想像がつかないことですし。わたしも含めて。
そういうわたしは、いまは森では暮らしていません。
仮設の領事館で、領事の仕事に追われています。
届けられた文書に目を通し、返事の文書をしたためる。その繰り返しです。
トールさんはやってくれません。
文字が読めない、書けないといっていました。
オルファ=ソノラとの契約書の署名欄は、空白だったという話ですから。後から私が署名することになったし、本当に信じられません。どうしてこういうことができるんでしょう。
それはともかく。
変ですよね。
会談で使われた上位共通語を話すこともできるし、アンテルンで話されている古典語も分かるみたいです。ニルシュヴァール地方で話されているのはルシェ語ですが、これも流暢に話していました。
不思議です。
文字が読めない、書けないことが、ではなく。
文字が読めない、書けないにもかかわらず、話す語彙に深い教養が見られることが。
それが不思議なのです。
話し言葉でいいなら、会話の中で身に付けることができます。ですが、会談のような場では、書き言葉でしか使わないような語彙も飛び交います。
あるいは、文献に記述された知識を元に話が進められたりもします。
そうした言葉や知識を理解し、自らも適切に使うことができるというのは。
本を読むとか、誰かに教えてもらうとか。
何にしたって、文字ありきになってきます。
トールさんは、文字が読めないし、書けません。
では、どうやってそうした知識や教養を身につけたのでしょう。
トールさんは自分のことを『神』と言っていました。
神様というわりにはなんだか不自由すぎる気がするんですよね。たとえば教会で神といえば全知全能の存在です。けれども、トールさんは全知全能からは程遠い、ごくふつうの、どこにでもいる人間のひとりです。
見方を変えてみましょうか。
たとえば、奈黎族にとっての神はどうでしょう。
奈黎族にとっての神は、万物に宿る精霊のようなものです。
雨を降らしたり、作物を育てたりするのは、天空の神、大地の神の御業……と信じられています。
正確には言えば。
空に雲が集まり、雨を降らす。
大地に蓄えられた恵みが作物を育てる。
そういう目に見えない働きを差して神と呼んでいるのだと思います。
自然界に働きかける力は、トールさんにはありません。いくつもの種類の言葉を理解して話したりというのは、まだ多才な人間の範疇に留まります。
ただ。
あのときただ一度きりわたしに見せてくれた力。
悪魔の門。
人間のなせる業じゃない。
あんなことができるなんて、ふつうの人間じゃない。
けれども、ふつうの人間じゃないから、じゃあ『神』だ、というのもちょっと考えが足りないとも思います。
でも、トールさんが自分のことを『神』だと言うのなら、それは信じたいとも思うのです。
べつにわたしたちのことを見捨ててもよかったのに。
トールさんはそうしなかった。
わたしたちのために頑張ってくれた人のことを、信じてあげたいと思うのは、当たり前ですよね。
たとえそれが、純粋にわたしたちのためにだけではなかったとしても。
……書類、終わりません。
机の上に、うずたかく積まれた羊皮紙の山。
はあ。
思わずため息です。
だいぶ日が傾いてきて、もう少ししたらランプを灯さないといけないな、と考えて、またため息が出そうになります。油は高いのです。
寝てしまって明日続きをやるほうがいいとは思うのですが、明日もまたこれをやらなきゃいけないと思うと、どうしても憂鬱になります。
はあ……。
どうしてわたし、領事になっちゃったんでしょうか。
「トールさんがやればいいのに……」
「呼んだ?」
「ひゃわっ!?」
「ひゃわ、って……」
うう、変な声出ちゃいました……。
「書類の処理、手伝おうか?」
「手伝うって、トールさん、文字」
読めないんじゃないですか?
と尋ねるより早く、羊皮紙を一枚手に取り。
目を通すと、羽根ペンでサインを……。
「字書けないなら無理しないでくださいよお……」
わたしは思わず頭を抱えます。
羊皮紙の署名欄には、芋虫がのたくったほうがまだ文字に見えるんじゃないかというくらい無残な、文字のような何かが刻まれていました。
この文書、すっごい大事なものだったのに……。
「羽根ペンってむずかしいんだねえ」
「それよりちゃんと読んだんですか? 適当にサインなんか済ませたら」
「この数日勉強したからもう読めるよ。今読んだのは租界の税の徴収についての取り決め。そっちのは、土地の利用計画でしょ。いやあ、神の力ってすごいすごい」
「まるで他人事みたいに……」
って、そうじゃなかった。
「それより、これ、本当に読めるんですか……? 数日勉強したって、三、四日しかなかったような」
「うーん、もっと書きやすいペン……いや、違うな。印章を作ろう。そうしたら誰でも仕事ができるぞ」
「トールさんって、ときどきわたしの話聞いてくれませんよね……」
「えっ? あ、ああ。ごめんごめん。うん。読むのは読めるようになったんだ。神の力が更新されたというかなんというか。自分でもよく分かってないんだけど」
「自分でもよく分からないって」
それって、怖くないんでしょうか。
確かめることはできませんでした。
怖くないわけない。
自分でもよく分からない力に頼らないといけない状況なんて、怖いに決まってます。
だから聞けなかった。
それを察してか、トールさんは少しあからさまに話題を変えます。
「森に戻りたい?」
「戻りたいかどうかっていえば、戻りたいです。しばらく様子見てませんでしたから、たぶんお酒とかダメになっちゃってると思いますけど……やっぱり、わたしはお酒作ったり、チーズ作ったりしてるほうが、性に合ってるんですよね」
「そうだよね」
「でも、今回トールさんがわたしたちのためにあちこち奔走して手を尽くしてくれたから、こうして無事でいられるって思うと、我儘も言ってられないな……って、なんだかごめんなさい、これも充分、我儘言ってますよね」
「言えばいいと思うよ」
トールさんは、穏やかに言います。
「……どうして」
「ん?」
「どうしてトールさんは、わたしにそんなによくしてくれるんですか?」
「放っておけなかったから」
「それだけじゃ、ないですよね」
でも、トールさんは、苦笑を浮かべて、困ったような顔で頭をかくだけで。
何も答えてはくれませんでした。
『どうしてトールさんは、わたしにそんなによくしてくれるんですか?』
そう尋ねられて、俺は結局何も答えられなかった。
領事館の執務室を逃げるように後にして、気付いたら森の中にいた。
もう夜だ。
二つの月が照らすので、外はそれほど暗くない。
なんか見覚えがあるなあと思ったら、この世界に最初に降りてきたときの例の野営跡だった。
これがマジャロヴャルキの野営地だったのかどうかは結局分からずじまいだ。
たぶんそうだろうとは思うんだけど。はっきりしないのでなんとなく収まりが悪い。
本当はマジャロヴャルキと休戦協定を結べたらよかったんだけど。
それは望むべくもない。
俺がシャルを助けた目的は、シャルを助けたかったからだけじゃないのは、もうシャルは分かってるようだった。
この世界で『神』をやるとして、自分がもっと前に出て動いてもいいんだけど、何かシンボルが必要になる。
要は『神話』が必要なのだ。神がかったエピソードが伝説になって、神話になる。
けれども、俺にはまだその『神話』がない。信仰を得るには、無力すぎる。人を動かすだけの力がない。
なので、まずは預言者を立てるところから始めた。
シャルを預言者にしたわけだ。
これがそのまま神の象徴になる。俺が神の力を行使するとき、シャルを経由すれば、すべて神の御業として人々に認識される。伝説になるわけだ。
といっても、今はその神の御業とかいうやつは行使できない。せいぜい人間の言葉を理解するくらいだ。
その『意志の疎通』にしたって、文字がまるで読めないので欠陥品だと思っていたけど、どうもサンプリングが必要らしく、数日の間、本を眺めているうちに文字が読めるようになったので、やはりちゃんと機能している。シャルがたくさん本を持っていたので助かった。
門は相変わらずだめだった。
もちろん『遠見』もだめ。
本格的にポンコツだ。
さておき。
預言者を立てたら、自分を信仰してくれる国が必要だ。
アンネは文明を導いてくださいって言ってたけど、具体的に何をすればいいのかは聞いていない。でもまあ、文明を作るにはまず国だ。でも、国の前に、まず都市である。都市であるというか、都市にして国である。都市国家だ。
ワレシュティ租界は都市国家である。
租界といってもいわゆる外国人居留地ではなくて、権限を移譲した半割譲地みたいなものだ。事実上のアンテルンの属領である。でも領民の半数はニルシュヴァール出身だし、領事もニルシュヴァール出身、租税を一定額ニルシュヴァールに納める必要があるから、ニルシュヴァールの属領とも言える。
アンテルンは非常に安定した政体を築き上げていて、内部の生産体制も、軍備も充分。今なお成長し続けている国家である。次にやってくるのは、人口問題だ。
国土には限りがあるので、人が増えれば居住地と生産地の拡張が必要になる。
マジャロヴャルキ側の領域は、あまり恵まれていない。
だが、ロ国はどうだろう。
水害という問題を抱えてはいるものの、それは裏を返せば、水を制しさえすれば肥沃な平原地帯だということだ。そんな生産地にうってつけの土地が、アンテルン北部に広がっているではないか。
特にオルファ=ソノラは生産を内地に依存しすぎている。ルチエラ市長にこの話を持ちかけたときは、とても興味深そうに聞いてくれたし、実際、話に乗ってくれたわけだ。
何しろ、金ならある。
アンテルン全体として、この流れをどう見るのかは、今後注視が必要になるだろう。オルファ=ソノラは大きな権益を獲得したわけだから、アンテルン内のパワーバランスに影響が出るかもしれない。
もっとも、それはワレシュティという都市が大きくなってからの話なんだけど。
そして、その頃までアンテルンの属領でいるかどうか。
いつだったか、これはニルシュヴァールを取り戻す戦いだと言った。
誰から取り戻すのかというと、べつに、マジャロヴャルキだけじゃない。
本当の意味で言えば、取り戻すのはロ国からだ。
もともとニルシュヴァールというのは、ロ国の土地ではない。ここにはもっと別の民族が住んでいて、別の民族の文明があったはずだ。
といっても、確信を得たのは最近だけれども。
ニルシュヴァールでは、ルシェ語が話されている。ところがニルシュヴァールという地名はルシェ語ではない。
レメディ語だ。
文字が読めるようになる過程で、いろんな言語で書かれた本を眺めた。古い本から新しい本まで、いろいろだ。
読めるようになってくると、これは上位共通語、これは古典語、というふうに分かるようになった。たぶんそういう知識のベースが組み上がったからだろう。
で、大体は上位共通語で書かれていたんだけれども、古典語、ルシェ語以外にも、なんとなく馴染みのある感じのする言語があって、なんだろうと思ったらそれがレメディ語だった。
馴染みがあるのはそれもそのはずで、ここいら一帯の地名だとか人名で聞き覚えが合ったわけだ。ニルシュヴァールだのワレシュティだのミクシャだのジュラだのといった名前はどうやらもともと全部レメディ語らしい。
つまりここではもともとレメディ語が話されていた。
レメディ語というのは、奈黎族の言葉である。
ここにはシャル以外の奈黎族はいない。
けれども、言葉という形で、奈黎族がいた痕跡が残っている。
つまり、奈黎族の文明がここにあった。
それからルシェ語を話す民族が流入してきた。
奈黎族はどこかに行ってしまったようだけど。言葉は受け継がれた。
そういうことになる。
言葉通り取り戻すことになったのは想定外だった。
だって、せいぜいロ人以外の民族が住んでるんじゃないかなーくらいにしか思っていなかったから。
ここいら一帯の村落が防壁で囲われているのは、何も東方の脅威に備えるためだけじゃない。
むしろ西側の方が脅威である。東は山を超えてこなければいけないのだから。
だからこそ、ニルシュヴァールはニールス川の東にある。
川は天然の濠だ。
これだけの川幅がある。
ロ国は苦労しただろうと思う。
ニールス川の東にニルシュヴァールがあるから、ああ、ここはロ国の領地に組み込まれる前からある都市なんだろうな、と思い至ったわけで。
もちろん、まだ取り戻しきってはいない。
ここにいる人たちは、突き詰めていけばロ国人ではない。自身のアイデンティティを確立するために、やがて自身のルーツを辿り、自国を立ち上げて独立する日がやってくる。
その日のための一歩だ。
その一歩が、ワレシュティ租界。
一部分だけではあるけれども、取り戻した。
複雑な都市になる。
それはしょうがない。
ルシェ語にしたって、この地域だけで話されているということは、このルシェ語を話す民族もまたつまりロ国人ではないってことになる。
そもそもロ国人なんてどこにもいないとも言える。様々な民族が治める領邦が連合してできた国なのだから。
そういう意味では、アンテルンにも同じことが言える。まあ、アンテルンは古典語という一つ言語で統一された国のようだし、ロ国よりはまとまりがあるのかもしれない。
ワレシュティにはアンテルン人も大勢やってくる。
開発が進めば、アンテルンはここを消費地としても利用したいと思うだろう。税を納めなきゃいけないから、黒字になるように運営しなきゃいけない。
それらがひとつのワレシュティ人になることができるかどうかというのは、どうだろうな。
むずかしいだろうと思う。
だから目指さない。
別に、ひとつの民族としてでなかろうと、共存できればいいのだから。
まあそれよりもまずはひとつの都市国家として、ニルシュヴァール、アンテルン双方から独立を果たさなければならない。
ここに住む人たちが、ここが自分たちの国なのだと思ってもらえるように。
そのためにも、シャルには頑張ってもらう必要がある。
言ってみれば、シャルを助けたいというのを口実にして、シャルを利用することを正当化したわけで、だから本当のことはちょっと言えないってわけで。もちろん言うべきなのは分かっている。
分かってはいるんだけどなあ。
アンネが見ていたら、どう思うんだろうか。
いない人間のことを考えても仕方がない。
「そろそろ戻るか」
いくら月明かりが出て明るいからといって、こんなところで野宿はしたくない。お腹も空くし喉も渇く。不完全な神だ。
そうして一歩踏み出して。
背後に違和感を感じる。
誰かに見られているような……?
と思って振り向くのだけど、誰もいない。
「気のせいか」
向き直ったところで、ヒュンと風を切る音が聞こえて、直後、ドンと背中に衝撃が響く。
強い力で押されて前のめりになって、たたらを踏んで転びそうになるのをこらえようとしたけれども、足がもつれて、地面に倒れ込む。
なんだ。
何が起こったんだろう。
背中が焼けるように熱い。熱いというか、痛い。これは痛覚だ。いや、熱いのも痛覚なんだっけ? それどころじゃないのに、思考がまとまらない。
背中がどうなっているのか、手でまさぐる。
何か刺さっているらしい。
木の棒だ。まわりがぬめっとしている。
たぶん血なんだろうなあ。
木の棒が刺さるわけないから、これは、そう。矢だ。
矢かあ。
やだなあ……。
言ってる場合じゃ、ない、とは思う……んだけども。
本当に不完全な神だ。
俺はその日、神として最初の死を体験した。