2.
第2章 長いプロローグのそのあと
21 / 21
異世界の神になってちょっと立地見るだけ

21. 悪魔の爪

 死ぬかもしれない。
 といっても、死ぬほど痛い目に会った後、空中回廊に戻るだけだ。
 存在の終了という意味での死ではない。

「死ぬかもしれないくらいの事態ということですね」

 アンネの言葉に俺は頷く。

「それは、誰かに殺されるということですか?」

 続く言葉には首を振る。
 もちろん、俺は一度殺されているはずなので、その俺を殺した誰かに見つかれば、殺されるかもしれない。今死ぬかもしれないといったのはそういう意味ではない。

「地球の人間の歴史で人口が激減した例を見ると、その最大の原因は実は戦争ではなくて病気なんだよね」

 戦争というといかにも人がたくさん死ぬイメージがあるんだけど、基本的には戦争は参加した人数以上の人間が死ぬことはない。

「史上最悪の戦争であるところの第二次世界大戦ですら、死者数は世界の人口の 2.5 パーセントに留まる。それでも充分大きな数字ではあるんだけどね。人数にすると 8,000 万人だ。って言われても、あんまりピンと来ないかもしれない」
「いえ、分かりますよ。ニルシュヴァール都市圏の人口の 2,000 倍くらいですよね」

 そっか、悠久人は数字が得意なんだったか。

「市域人口でいうと 25,000 倍になりますが、こうなるとかえって想像できなくなってきますね」
「確かに」

 ニルシュヴァールを地球に当てはめて考えると、たぶん 中世後期のヨーロッパって感じになるだろうから、ものすごく乱暴にいうと 8,000 万人という数字は中世ヨーロッパの中都市 2,000 が滅ぶくらいの人数に相当する。
 想像を絶する、というやつだ。

「ところで、地球では、今のこのニルシュヴァールと同じか、ちょっと進んだくらいの文化水準の頃にも、第二次大戦の死者数に相当する数の人間が死んでたりするんだ」
「それもひょっとして戦争で……? いえ、違いますね。最大の要因が病気、という話でしたら、病気ということなんでしょう」
「そう。伝染病の大流行で、世界中で 8,500 万人の人が犠牲になった、と言われている。ヨーロッパだけでも 2,000 万 から 3,000 万人」

 ちなみに当時のヨーロッパの人口は 7,000 万人ほどだと言われている。
 つまり、伝染病の流行で三割もの人間が死んだわけだ。
 三割というのがピンとこないなら、前述の乱暴な計算を当てはめて、中都市 1,000 が滅ぶくらいの被害が出た、と言ってもいい。
 中世ドイツの中都市以上の規模の都市はおよそ 300 から 500。
 ドイツが二回滅ぶくらいの被害に相当する。これはあながちそんなに外れていなくて、13 世紀ドイツの人口はおよそ 1,000 万人。ヨーロッパ全体で 2,000 万人以上死んでるんだから、ドイツが二回滅ぶ程度の被害っていうのは、まあ、だいたいあってる。

 ドイツを例に出してることに他意はない。
 どこの国でも構わなかったんだけど、俺がドイツについては特によく調べてたから例に出しやすかったというだけだ。
 どいつでもよかった。
 ……。

 さて。
 その伝染病の名前は、ペスト。
 英語では the plague といって、これはまさしく「ザ・疫病」という意味だ。

「この病気にかかると皮膚が黒ずんで、やがて死ぬので、黒死病と呼ばれて恐れられた。俺も黒死病という名前で覚えたので、ひどく印象に残っている」
「トールさまが好きそうなお名前ですからね」

 うるさいよ。

「でも、死の病というのは、まさに当を得た表現ですね。実際に多数の人間が犠牲になったわけですから」

 実際、空気感染する肺ペストは死亡率 100 パーセント、つまり罹ったら死ぬ病気だったので、まさしく死の病だ。

「現在では治療を施せば、その死の病である肺ペストも死亡率 15 パーセント未満に抑えられるんだけど、逆に言えば、治療してなお死亡率一割強ってことになる」

 治療しても十人にひとりは死ぬ。
 もちろん治療が遅れても死ぬ。
 死の病なのだ。

「怖い話ですね」
「怖い話だよ」
「それで、その怖い話を今する理由をお聞きしたいのですが」
「……」
「さきほど、トールさまは誰かに殺されるのではない理由で死ぬかもしれない、と言いましたよね」

 そうだ。そのつもりで話したのだった。
 腹をくくろう。

「ワレシュティ租界から人がいなくなった原因が伝染病の流行だとしたら、そこを通ってきた俺たちも、その伝染病に感染している可能性がある」
「そうですね。ありえると思います」

 下界に降りるときに構成された身体は、生身の肉体そのものだ。病気にもかかるし怪我もする。動き回れば疲れるし、暑さも寒さも感じられる。
 痛いときはおんなじように痛い。
 死ぬときも。

 俺が死ぬのは別にいい。
 いや、よくはないが。
 アンネを巻き込むのは心苦しい。
 それになにより、シャルの状況を早く確かめたいというのもある。
 俺が死んだら手遅れになるかもしれない。
 伝染病の流行の疑いがあるのなら、なおさら。

「ですがトールさま。わたしは、伝染病の可能性というのは低いと考えてますよ」
「なんでまた」
「それほど強力な疫病なら、ここニルシュヴァールだって無事ではないでしょう。というかですね、わたしたちが感染しているのでしたら、それはきっと空気感染ですよね。そうすると今わたしたちはニルシュヴァールにその伝染病を運んできたことになります」
「うん。俺たちが疫病のになって、ニルシュヴァールに壊滅的な被害をもたらす……というシナリオも最悪あるのかなあって、思ったんだけど」
「もしそうだとしたら、もっと早くに誰かが運んでいるのではないでしょうか」

 言われてみればそうだ。
 いや、言われなくてもそうなのでは?

「……という考えに至らないくらいには、今のトールさまには冷静さが欠けています。しっかりなさってください」

 そうかもしれない。
 冷静ではない。
 いや、冷静でいられなくなっている。

「自覚できましたか?」
「……確かに、今の俺は、たぶんちょっとどうかしているんだと思う」
「たぶんでも思うでもなくて、どうかしています」

 力強く断言されてしまった。

 まあでも、アンネの言うとおりだ。
 もし疫病が蔓延してるんだったら、ニルシュヴァールにだって被害は出てなきゃおかしいし、逆にニルシュヴァールで流行してないんだったら、仮にワレシュティ租界で疫病が発生していたとしても、大した威力ではないことになって、結果的にワレシュティ租界から人が避難する理由にはならないってことになる。

「でも」

 とアンネが難しそうな顔で言う。

「確かに生産地で疫病が流行すれば、都市部では食糧難になるんですよね」
「俺もそう思ったから流行病を疑ったんだよね」

 生産者が病気で動けないから、というだけではなく、疫病で汚染された地域の農作物というのは基本的に使いものにならない。なんでかというと農作物を運ぶ人間が一緒に病気を運ぶことになるからだ。
 もちろんふつうの市民や農民がそういうことを理解できてなかったりして感染は拡大するんだけども、そういうときは、たとえば教会が汚染された地域の作物を不浄として口にすることを禁じたりする。
 ここにはある種のがあるけれども、狙った効果は発揮されるので結果的には正しい。
 教会という場所には、他の場所よりも多くの知識が集約されている。
 だから教会に属する人というのは、それなりに自然科学に対する理解があるものだ。
 そして、彼らは人がどういう言葉によって動くのか理解している。
 たとえば、信仰心で人を動かす。
 なので、この誤謬は意図されたものだったりもする。もちろん、本当に理解が不充分だったというケースもある。
 さておき、そういうわけだから、都市から離れたどこかの生産地で疫病が流行ったら、感染の拡大を阻止するべく教会が動いて、汚染地域の作物のシャットアウトを行って、配給制を実施するだとか、そういった措置が取られるんじゃないかと思う。
 その結果が今のこの光景だったら、そこそこ説得力がある。
 ただ、そこそこ説得力があるというのは、せいぜいその程度だとも言える。

「食糧難とワレシュティから人がいなくなったのは多分関係がある、という前提だけど」
「はい」
「ワレシュティで何かが起きて食糧難になった。あるいは、この食糧難によってワレシュティの人間が移動した。どちらでも考えられるけど、まあ、とりあえず前者だとすると」
「そうですね。後者の場合は、この街にワレシュティから移動してきた人間がいるかどうか調べればよさそうですからね。今考えなければいけないのは前者でしょう」

 後者だったときのほうが話は簡単だ。だったら、想定するべきことが多いであろう前者のほう、つまりワレシュティで何かが起きた場合から先に考えたほうがいいだろう。

「どこかで何かが起きて、別の場所に影響が及ぶ。ただし感染症ではない」
「感染症ではないとすると?」

 感染症ではなくて、何らかの要因で流行……つまり、影響範囲が広がっていく、そんな現象って。

「いや、あるか」
「たとえば?」
「たとえば、宗教や文化はそういう性質をもっている」
「なるほど。確かにそうですね」

 宗教の場合は伝道師が、文化は旅芸人や商人がする。

「何かが波及するとき、必ずそこにはがいる。それが大気や水の流れのような自然現象なのか、なにかの動物なのか、いろいろだとは思うけど。人間がいるところに影響を及ぼすのは、一般に言って人間だ」
「そうですね」

 もちろん人間だけが人間に影響を及ぼすわけではないけれども。でも、まあ、大抵の場合はそうだ。

「ということは、だよ。まずは、人間の動きを追うことで、何かしら手がかりが得られるんじゃなかろうか、と思うんだけども」
「筋が通っていますね。でも、どうやって?」
「人間のことは、人間の集まるところで聴くのが一番だけど」

 目の前の広場は、そういうことを聴けるだけの秩序が、ちょっと行方不明気味かな。

「ここで尋ねるのはリスクが大きすぎますね。トールさまの命を奪ったのがどこの誰か分からない以上、不特定多数と接触を持つのは危険です」

 アンネの言うとおりだ。

「不特定多数の人間が集まるところで、かつ、秘密裏に話を出来るとても便利な場所、実は知ってるんだよね。酒場って言うんだけど」


 夜を待って、歓楽街の一角に降り立った。一度来たことがあるのでから直通なんだけど、さすがに室内に直通だとびっくりさせてしまう。というわけで、昼のうちに人気のない路地を下調べしておいて、夜になってから降りて、こっそり向かうことにした。
 こっそり向かっても、酒場には大勢の人がいて、その中には俺の命を奪ったやつか、その関係者がいるかもしれない。誰がそうかわからないので、警戒のしようもない。突如として命を奪われる……という可能性は、まあ酒場にいる間はないだろうけれども、「なんであいつまだ生きてるんだ?」みたいなことになると困る。
 そうならないように祈りつつ、ドアを開け、酒場の中へと入る。
 杞憂だった。

「ガラッガラやん……」

 酒場に客は誰一人としていなかった。
 閑古鳥も喉を潰すレベルだ。
 思わず漏れ出た俺の呟きに、マスターが答える。

「あいにく酒がねえんだ」
「なんでまた」
「そりゃ、ダメになっちまったからだ。あたらしく造ろうにも、小麦がねえしな」

 アンネと顔を見合わせる。
 小麦がない。
 そりゃそうだ。
 酒を造るには小麦が必要だ。
 が、そもそも酒がそんな簡単に在庫切れに……ダメになった?

「というかですね、今ふと思ったのですが。最初からに来て話を聞けばよかったんじゃないですか? 伝染病がどう、人の流れがどう、そのようなことを考える前に、パンが配給制なのはどうしてなのか、ワレシュティ租界に人がいないのはどうしてなのか、全部で聞けば、それで済む話だったのでは……?」

 またそんな見も蓋もないことを。

「先にここに来て話を聞くにしても、いずれ広場の騒ぎのことは実際に見に行く必要があったろうし、何について調べないといけないのか整理できてない状態で情報収集はできないからね、遠回りでも、これでよかったと思うよ。というか思おう。な?」

 釈然としないといった顔だ。
 いや決して思いついてなかったからとか全然そういうわけではない。もう本当に。確かにちょっと冷静さを欠いて失念していたという可能性もひょっとすると微粒子レベルには存在するのかも……? 
 ところで微粒子レベルで存在って、よくよく考えると不思議な言葉じゃない?
 これって、可能性の大小を微粒子にたとえたんだと思うけど、微粒子と同じ程度に存在するとも読めるわけで、そうすると微粒子は確実に存在してるんだから、可能性も百パーにならない? ならないか。いや、なるでしょ……?
 俺は考えるのをやめた。
 そんなことを考えている場合ではないからだ。

「ともかく、ええと……酒がダメになった? 全部?」
「うむ……」

 とした顔で頷くマスター。

「お酒ってそんなに簡単にダメになったりするものなんでしょうか」

 アンネの疑問はもっともだ。
 酒がダメになる。
 つまり飲用に適さなくなる、ということだけれど。

「酒はアルコールだ。当たり前のことと思うかもしれないけど、アルコール中ではふつうの菌は生育できない」
「消毒に使ったりしますね」
「なので、酒というのは一定以上度数が高ければ腐ったりしない」

 腐敗を促す細菌が活動できないからね。

「なんだけども、当然、発酵を行う菌自身も度数の高いアルコール中では生育できないので……」
「発酵がそれほどは進行しない、ということですか」

 醸造酒の度数には自ずと限界が生じる。

「ところがアルコールに対して耐性の高い菌というのも世の中には存在していて、たとえば、酢酸菌」
「酢」
「そう」

 酢酸菌は、その名の通り酢酸発酵を行う菌である。
 この菌はアルコールから酢酸を生産する。それが酢だ。
 ワインやエールはそんなに度数が高くないので、酢酸発酵が行われて、酢になったりする。まあ、英語で酢はビネガーというんだけど、ビネというのはワインのことで、「酸っぱいワイン」という意味だったりする。エール酢はエールガーと呼んだりしたらしい。
 酢になってしまえば、酒として飲むことはできない。
 酒として作っていたものがダメになるというのは、つまり「腐敗」したってことだ。牛乳も乳酸発酵が進めばヨーグルトになるが、まあ、ふつう腐ったって言うよね。そうそう、乳酸菌の中にもアルコール耐性が高いものがいるので、これも酒の腐敗要因になる。

「あんたらが何の話をしているか分からんが……」

 酢酸菌の発見は 19 世紀。フランスの生化学者パスツールによる。ここは試験に出るので覚えておこうな。
 ともかく、近代に至るまで、有機物が腐敗したり発酵したりする原因というのはよく分かっていなかった。
 中世程度の文化水準であるここニルシュヴァールでそのような話をしたって、そりゃ理解しろというのが無理な話だ。もちろんここは地球ではないから、ここがものすごく生物学が発展した世界だというのならその可能性がないわけではないが。微レ存。微生物レベルで存在している……?

「……まあ、話すよりも実際に見てもらったほうが早い」」

 そういってマスターは店の奥へと引っ込んでしまい、室内には俺とアンネが取り残された。

「酒がダメになったのは腐ったからなのかって、聞けばよかったね」
「戻ってくるのを待ちましょう。ですが」
「うん?」
「腐敗が原因だったとして、たとえば全部が全部酢になるって、おかしいですよね」
「おかしいねえ」

 全部が全部酢にならなかったのは確かとして、ほかの要因で腐敗するにしたって、全部というのはおかしい。
 そもそも、ニルシュヴァールには蒸留酒があるのだ。
 蒸留酒のような度数の高い酒の中では、腐敗を促す菌は活動できない。腐らないのだ。蒸留酒がある以上、全ての酒が「腐ってダメになる」なんてありえない。
 では、と他の要因を考える。
 飲用に適さなくなったのではない、べつの事情。
 たとえば……。
 盗まれたとか火災で貯蔵庫が焼失したとか……全部の貯蔵庫で?
 それこそおかしい。異常事態ってやつだ。
 にしても、アンネも異世界人のはずなんだけど、地球のことよく知ってるなあ。
 それともアンネたち悠久人の世界も、地球とおんなじような自然法則があったりするんだろうか。
 とか考えていたら、マスターが戻ってきた。
 むっと押し黙ったまま、バーカウンターの上に拳を載せる。

「こいつのことは、誰にも言うなよ」

 そしてゆっくりと掌を開く。
 黒くて小さな粒が、二、三個。米粒大よりちょっと大きいくらい。そう、何かの種子のような。
 というか、穀物の種子だ。シリアルのパッケージに書いてあるやつ。

「麦ですか?」

 アンネの問いに、マスターは首を振る。
 麦ではない。見た目は麦っぽいけれども。

「小麦畑に混じってやがった」

 忌々しそうに顔をしかめ、続ける。

「悪魔の爪だ」

21. 悪魔の爪 « 異世界の神になってちょっと立地見るだけ « 半文庫

テーマ