冷えた空気が頬を撫でて目が覚める。
肩、脇腹、背中、体のいろいろなところに痛みがある。
地震で電車が押し潰されて——地震で崖から落ちて——生きている。
電車とは? 崖?
生きている。それに傷も深くない。
死んでいてもおかしくないと思ったけれど……それは間違いない。
どこか熱っぽく、頭もぼうっとしている。
気だるい体を起こして、あたりを見回す。
どこかの部屋だろうか。
石組みの壁、板張りの床、馴染みのない部屋。埃っぽく空気が悪い——寝床のある小屋に比べて空気がよい——小屋で寝泊まりをすることはない——。
なんだろう。
ベッドには、薄い布団、薄い毛布、平らな枕——布団も毛布も枕もある。
布団も枕も、布袋に羊毛を詰めたものだ。薄く平たい——やわらかい。
スプリングの効いたマットレスではなく、綿もよれている——藁を詰めたものでない、上等な布団と枕。
スプリング、マットレス、馴染みのない言葉。
これが上等? 布団や枕に、藁?
人がただ寝泊まりするだけの部屋。
粗末な部屋——上等な部屋。
二つの思考。
自分が二人いて、二つの物事の受け止め方がある。
ぼ く は誰だ?
——わたしは ぼ く だ。
スウェーデンカブを求めて電車で移動していた〈わたし〉はおそらくあのときに死んだ。〈ぼく〉もまた、家畜たちを連れて放牧路の単独踏破試験のさなかに死につつあった。
いま〈わたし〉は〈ぼく〉と同時にここにいる。
自身の体を見る。
小さな手。荒れた子供の手。日本の子供の手がこのように荒れていることはない。日本? そうか、ここは日本ではないのかもしれない。〈ぼく〉は日本人ではないのだろう。〈わたし〉は日本人だった。〈ぼく〉は牧畜民の一族に拾われた子供で、日本人じゃない。
この身体は……〈ぼく〉のもの——?
「——っ! ぐああアアアアっ、うっ、うぅ、あ……っ……うぐ……」
自分が何者か認識できた瞬間、頭が割れるような激しい痛みにさいなまれて、ぼくはベッドにうずくまる。
どくどくと頭の血管が収縮するのを感じながら、頭を抑えてじっとしていると、次第に痛みは収まっていき、だんだんと思考が晴れていくのがわかった。
まるでいままで目隠しでもしていたかのような気分だ。
〈ぼく〉がわからなかったはずのことが、いまはわかる。
そうすると、いろいろ考えることがある。
思考に集中しようと思ったところで、部屋の外から階段を上るような足音が近づいてくるのに気付いた。その方向を見るのと同時に、ドアが開かれる。
「あら。もう起きていたのね」
女の子だ。ふわふわとした金色の髪に、くりりとした青い瞳。まだ十二、三歳くらいだろうか、〈ぼく〉と同じくらいに見えるし、あどけないけれど、纏う雰囲気だけで貴人の娘と想像できた。そして実際、彼女は間違いなく貴人の娘で、おそらくはこの屋敷の主の子だろう。派手ではないけれど、見ただけで上等とわかるうつくしい生地の衣装で身を包んでいた。
それに髪をあらわにしていても埃にくすんだ様子がない。
よく手入れされているということだが、それはつまり髪に構う余裕があるような身分ということになる。
それから、言葉に田舎訛りがない。洗練された言葉遣いだ。それだけの教育を受けているか、あるいは普段からそのような言葉を使う人に囲まれて生活しているか、あるいはその両方か、とにかく、それだけ高い身分にあることは確かだ。
「起きていても平気? どこか痛いところはないかしら」
頭の痛みが引いてから、体の痛みを忘れていたのか、じわりと肩、背中、脇腹……体中のどこかしらが痛むのがわかる。痛いと思えば痛いと感じるもので、人間の身体の不合理を思う。
「っ……」
「その様子だとまだ少し痛むみたいね。体を楽にしてすこし待っていて。いま食べるものを持ってくるから」
たべるもの。
たべるもの……?
……食べ物か!
そういえばお腹が空いている。現金なもので、ものを食べられると思ったら空腹をよりはっきりと感じるようになってしまった。
部屋から出ていく彼女を見送りつつ、ベッドに体を横たえる。
あらためて体の痛みについて考えてみると、骨をやったときほどの痛みはないけれど、どこかを強く打ったとか、ひねったとか、あるいはそのどちらもやってるか、なんにしてもおとなしくしておいたほうがよさそうだ。
ぼんやりと天井を眺めながら、考えてみる。
言葉は問題なく通じているけれど、それは〈ぼく〉がもともとこの世界の人間だからだろう。
響きはどことなく英語っぽい気がする。〈ぼく〉の記憶にある地名や人名は、〈わたし〉が知っているアメリカやイギリスのそれに似ている。でも、聞いた言葉の感じではやはり英語とは違う。語彙じゃなく文法的なところが、特に違っている。
それから、ぼくが知っている概念は、〈わたし〉が知っている言葉に結びついて理解されるようで、これはたぶんぼくの思考の根幹が〈わたし〉寄りということなんだろうと思う。
〈わたし〉が知らないこの世界のことも、できる範囲で〈わたし〉が理解できるような言葉に置き換えられているみたいだ。
これがどういう仕組みによるものなのかはわからないけれど、わからなくてとりあえず困ることもないと思う。
ふたつの世界の概念を〈わたし〉の言葉で解釈できることと、そして言葉が通じること、これだけわかっていれば充分そうだ。
さて、〈ぼく〉を介して言葉が通じるということは……今ぼくはイスランド王国のどこかにいることになるし、さっきの女の子が話していた言葉は韋語——イズ語のことだ——ということになる。
王国のどこかまではわからないけれど、ぼくが王国の南部にいたことを考えると、南部で間違いないとは思う。
季節は秋の終わり。暦上は九月半ばなのだけど、これはこの世界の暦での九月だ。この世界で使われている暦法では、冬至と春分の間、つまり二十四節気でいう立春に年がはじまる。太陽暦だと十月下旬くらい。
これから冬になろうとしているわけだから、肌寒いのもわかる。
特に、イスランド王国は全体的に寒冷で、南部であっても冬は厳しい寒さになる。これから冬にかけて、もっと寒くなっていく。
そんなふうにして状況を確認していると、さっきの女の子が木のトレイを手にしてやってくる。
トレイには木の浅い器がのせられていて、湯気が立ち上っているのが見えた。
「少し待たせてしまったかしら。グリュエルだけど、ちょっと熱いから気をつけて」
見た目は白いスープのようだけど、彼女は粥と言った。
匂いは……米とも小麦ともつかない、少し甘いような香りがする。〈ぼく〉にとっては馴染みのある、ヘラムギの香りだ。
麦とはヘラムギのことだろう。この世界で麦といえばヘラムギだ。
それよりお腹が空いている。早く食べよう。
果たしてどんな味がするだろうか。
期待を胸に、粥を木のスプーンですくい、すこし冷まして口へと運ぶ。
ん……。
……。
これは、泥……ですね……。