1.
領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

4. リルエット・リサンバー・オート・レシャー

 リルエット・リサンバー・オート・レシャー。
 正真正銘、レシャー男爵令嬢だ。
 不思議なことじゃない。
 これだけの屋敷だから、それなりの身分だろうとは思っていた。

 イスランド王国には、爵位がある。
 王国の南西の端に位置する小さな辺境の領地、それがレシャー男爵領だ。
 確かに小さな辺境領だけど、領地は領地。
 男爵は最下級ではあるけれど、王家に認められた貴族なのだ。
〈ぼく〉の感覚からするとすごいことだけど、〈わたし〉の感覚からしても相当すごい。現代日本に貴族はいないから……。

 この世界の文明水準を、ぼくは実はまだよくわかってない。
 建物の作り、食器、寝具、衣服、それから〈ぼく〉の記憶全般からみて、元の世界の現代とはほど遠いということはわかる。
 という生業があるくらいで、大規模牧場を運営できるような、生産性の高い飼料栽培もできていない。
 それくらいしかわからないので、もっとこの世界のことを知る必要がある。

 そういう意味では、彼女のは、ぼくには都合が良かった。
 都合を抜きにしても、受けるつもりだったけれど。
 いて、リリーに返事をする。

「わかった。きょうからぼくは、リリーの従者だ」

 しかし彼女はにこにこしたまま首を振るのだ。

「いいえ。きょうからは無理よ」
「えっ」
「あなたには、爺について従者としての指導を受けてもらうわ」

 そしてリリーは部屋の外の方を向き、はっきりとした声で「爺」と呼びかけると、それから間もなく身なりのよい壮年の男がやってくる。

「家令のスティバートにございます」

 そう名乗り、しく頭を下げる。

「爺。トーマのこと、よろしく頼むわね」
まりました」

 リリーはぼくに向き直ると、当然という顔をして言う。

「だって、わたしの従者になるのだから。しっかりと仕事を覚えてもらわないといけないでしょう?」

 なるほど。けれども命の恩人に報いるためなら、それもまた当然のことではないだろうか。まして彼女は貴族だ。ぼくのような人間を従者とすれば、彼女の貴族としての品位に関わったりするんじゃないか。
 気が引き締まってきた。
 真面目な顔をしていると、リリーはいたずらっぽく笑いながらぼくに近寄り、

「だから、とりあえずは従者見習いね」

 そういって、ぼくの鼻先を指でちょんと押した。

「わぷっ……」
「ふふっ、変な顔……ふふっ」

 リリーの手を払い除け、 とした顔をしてみせると、彼女は笑って「あんまり真剣な顔をしてたから、ついね。ごめんね」などという。

 ただ、従者か。
 もう引き受けると返事をしてしまったけど……ぼくはこのまま従者になっていいんだろうか。
 たぶん、トゥレーディ族のみんなは、ぼくが死んでしまったと思っているだろう。
 しかしそれはぼくを試練に送り出したときに、みんな覚悟できていたことだ。
 試練に挑む子供にかぎらず、一人前の牧人だって放牧路を巡る途中で命を落とすことはある。
 牧人の仕事は、死と隣り合わせだ。
 今、彼らのもとに帰って、彼らが受け入れてくれないことはないと思う。彼らに対する恩返しをしたい気持ちもある。それに……このままもし帰らないってことになっても、せめてお別れくらいはいいたい。
 育ててくれた にも、兄弟のように接してくれた他の子たちにも、牧人としての技術を教えてくれた にも、何も伝えられないまま、何も告げないまま……それはあまりに悲しいことだと思う。

「トーマ?」
「……ううん、なんでもないよ」

 でも、まずは彼女に恩を返してからだ。まだぼくは何もしていないのだから。
 そのためには、単に彼女の従者になるだけじゃだめだ。ただ彼女の従者になるだけで、彼女に対する恩返しになるわけじゃない。彼女の従者として、彼女に何かをしてあげたいと思う。
 そのために何ができるのか。今はわからないけれど、とりあえずは使用人としての仕事をうできるようになりたいと思う。

 ぼくは爺のほうを向き、頭を下げる。

「これからよろしくお願いいたします」

 けれども、ぼくはいったい何をすればいいんだろう?


 ぼんやり考えごとをする暇が与えられることはなかった。
 爺について使用人の仕事を一通り覚えさせられた。
 とにかくやることが多かった。
 屋敷の掃除、薪の用意、水汲み、食材運び、皿洗い、他の使用人への給仕、それからそれ以外のたくさんの雑用をこなした。
 子供とはいえ牧人見習いなので、体力があったのは幸いだった。前世の肉体では耐えられなかったと思う。
 どうしてこんなにも大変だったかというと、この屋敷、広さの割にぜんぜん人がいないのだ。

 男爵家の家族構成は、当主であるレシャー男爵のランスワード、長男のレイフリック、次男のルドリック、末女のリルエット——つまりリリーのことだ——の四人。ランスワードの妻フィオーリは故人で、リリーを産んでから床に伏しがちになり、数年のうちに亡くなったということだった。リリーも母のことはあまり覚えていないと言っていた。
 次男のルドリックは宮仕えのために領内におらず、年に一度顔を見せに帰ってくるだけだという。
 傷が治るまでの間ぼくが寝起きしていたのは、ルドリックの部屋だったらしい。ぼくが寝ててよかったのかなあ……。
 今いる使用人の寝室は、広い部屋にたくさんベッドを並べたもので、とりあえず寝るだけの場所という感じだった。使用人部屋のベッドの感想は……ルドリックのベッドはあれでも上等だったんだな、とだけ。
 さておき、そういうわけだから実際のところは男爵家には今は三人しかいない。これに使用人を入れれても、せいぜい十人くらいだろう。それくらいの人数が暮らすのにちょうどいい広さの屋敷だ。
 ところが使用人は家令を務める爺以外に厨房係が一人、女中が一人いるだけで、ぼくを入れても四人。

 あるときに爺に尋ねてみた。

「気になっていたことがあるのですが、よいでしょうか?」
「なんなりと」
「ここは男爵様のお屋敷なのだと思いますが、その男爵様をまったく見かけません。人の数も、屋敷の大きさから考えるとずいぶん少ないと思います」

 従者見習いだから、ということで、人前に出る仕事は与えられなかった。だからなのか、リリー以外の男爵家の人間に会うこともなかった。けれどもまったく見かけないというのは妙な気もする。
 使用人のベッドにも、たくさんの空きがある。

「旦那様でしたら、今はお出かけになっています」
「やっぱり。人が少ないのは、男爵様に随伴しているからでしょうか」

 爺は頷く。

「今は収穫後の徴税を行う時期で、旦那様とレイフリック様は領内の村々を訪問しています。旦那様とレイフリック様のお世話をするために、使用人たちも屋敷を離れているのです」
「男爵様がいない間に、勝手なことをしても大丈夫なのですか?」
「旦那様が戻られる前に大丈夫にするというのがお嬢様のお考えなのでしょう。ただ……旦那様も驚かれるでしょうが、強くは反対しないと思いますよ。お嬢様が何かを拾ってくるのは、今に始まったことではありませんから」

 リリーはなんでも拾ってきてしまうらしい。
 よく世話をするといっては動物を拾ってきたものだと爺は笑いながら言った。

「それに、私はよい勉強になると思っています。お嬢様には同じ年頃の話相手がおりません。自分に仕えるものを見定める目を今のうちから養っておくのは、お嬢様にとって必要なことです」
「ぼくでよいのでしょうか」

 爺は「トーマさんは、歳の割にはしっかりしていますから、そういう意味ではあまり相応しくないかもしれませんね」とらかに笑う。

「ただ、最近のお嬢様はしっかりと歳相応の振る舞いをされていますよ。それはトーマさんのおかげだと私は考えております」

 ゆくてなんだか居心地が悪くなって、その日はうまく仕事をこなせなかったりしたのだけど。

 ……よく考えてみると、男爵とレイフリックの使用人がいない間、この屋敷の仕事は誰がこなしているんだろう。
 爺に聞いてみた。

「仕事を覚えていただくために、この時期にはやらないような仕事もお任せいたしました。旦那様が男の使用人を連れていってしまうので、男手が足りなくて困っていたのですが、トーマさんはきっちりこなされるので、大変助かりました」

 ……。

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