はい、ということでね。
きょうはパン窯を作っていきたいと思います。
……まずは石を集める。
窯の真ん中に石の板を敷いて、その下を炉、上を焼成室にするので、中板と天板で石の板が二枚必要になる。石は当然重いので、これを運ぶのはちょっと苦労した。
隙間に粘土を詰めながら、石を積み上げていく。
配置を考えながら積み上げる。試行錯誤の繰り返しの、地道な作業だ。
地味な石積みの間も、リリーは側でじっとぼくの作業を見ていた。
ただ静かに、何も言わず、ぼくに何かを尋ねることもせず、じっと見ているだけだった。
使用人の仕事と、読み書きや教養の勉強をこなさないといけないので、自由時間は実はあんまりなかったけれども、それでも数日かけて石を積み上げて、ようやく窯らしいものができあがった。
「長かった……それにしても、退屈だったでしょ」
リリーに聞いてみるけれど、彼女は首を振る。
「楽しかったわ」
あまり楽しそうな顔はしてなかったと思うけど……。
まあ、詮索するほどのことでもなし、それよりも試し焼きをしてみたい。
ヘラムギの粉を水で練る。
今回は前よりも水の割合を減らす。薄く伸ばすには半液状でいいけれど、今から作るのは厚みのあるパンだ。パンになるとは思ってないけれど、心はパンを作る気分でいる。
窯に火を入れて、温める。温まったら焼成室にパン生地を入れる。
ちゃんと焼けてくれればいいんだけど。
結論からいうと、焼くのは三回失敗した。温度が適切でなかった。
で、四回目に焼き上がったものの時点で、一応成功だったんだと思う。
今手にしているのは、五回目のもの。
リリーが首を傾げる。
「これ、前のと同じよね」
頷く。四回目に焼きあがったものと、五回目に焼きあがったもの。同じである。
同じように、手のひらでボロボロと崩れる。
ヘラムギ……もしかしてめちゃくちゃボソボソなのでは……?
平焼きのときは、焼くことで表面が固まって、形が保たれた。バニッジは、中はボソボソではあるけれど、そんなに簡単に崩れるほど脆くもなかった。
バニッジは、ブロック食品と変わらないくらいには丈夫だ。
いま手のひらにあるのは、乾いた土の塊と同じくらい脆い。
一応食べてみる。
粉だ。わかってたけどね。四回目に焼きあがったやつも粉だったから。
「こほ……粉っぽいわ」
「ヘラムギのポリッジはあんなに弾力があるのに、どうして粉になるとこんなにボソボソになるんだろう」
「うーん、粉をヘラムギの粒に戻すことはできないものね」
「粉になると……壊れる?」
「壊れるって。あんまり食べ物には使わない言葉よね」
トーマってときどきそういう変わった表現をするのよね、なんてリリーが言うのをよそに、ぼくは思考を巡らせていた。
ヘラムギの粒が壊れる。
いや、ヘラムギの粒の組織が壊れるといったほうがいいか。
挽き割りのヘラムギの粒も、粒より大きくはならないし、粉も一度粉になれば、もう粉よりも大きくはならない。
けれども、それでもバニッジは粉よりは大きな塊になるのだ。いくらボソボソとしていても、粉っぽくとも、粉そのものにはならない。
壊れた組織が元に戻っているとは思えないけれど、一定の大きさの形を保つ程度の組織を形成することは起きているんじゃないのか。
組織を作る……パンはコムギグルテンの力で弾力のある網目が作られる。
ヘラムギにはコムギグルテン相当のものがないのだと思う。
オオムギやライムギのパンが膨らみにくいのもそれが理由なんだけど、オオムギもライムギも、それぞれ独自の接着剤の役割を果たすたんぱく質を持っていて、多少は生地に弾性を与えることができる。ところで接着剤の役割を果たすたんぱく質だからグルテンなんだけど、日本ではグルテンという語はコムギに限って使われるみたい。紛らわしいので、コムギのグルテンはコムギグルテンとしておこう。
たぶんヘラムギにはヘラムギグルテンがあるのだと思う。
焼く前はちゃんと生地としてまとまっている。生地としてまとまるための接着剤がある。
これを焼いてパンにしようとすると、なんらかの力で弾性が失われて生地が壊れてしまうんだと思う。
けれども、正しい方法で作れば、バニッジくらいには形を保つことができる。
ここまでの仮説は、いまのところ妥当だと思う。
でも、だとすると……なんだろうね。
どうしてぼくが練ったヘラムギ粉の生地は壊れるのか。
そしてどうしてバニッジの生地は壊れずにバニッジとして焼き上がるのか。
なんにしても、試作二号は失敗だった。
試作三号の前に、とりあえず仮説の妥当性を検証したほうがいいかな。
今回は生地を持ってきた。
ぼくが作った生地ではないから、これは試作に含めない。
これから焼くのは、屋敷で食べているバニッジと同じ生地だ。
焼く前のものをもらった。明日のぼくの分のバニッジは抜きになったけど、それは構わない。
焼き方は、前と一緒。
これがちゃんと焼き上がらなかったら、焼き方が問題ということになる。
窯が悪いかもしれない。
「バニッジの香りね」
「そうだね」
こないだまではしなかった、バニッジの香りがする。わずかに甘くて芳ばしい香りだ。パンに似ているけれど、パンとは違う。麦茶の風味にもどことなく似ている。でも、どっちも違う。ヘラムギ独特の香りだと思う。
香りが違うのは、生地を変えたからだろう。
やがて、バニッジが焼き上がった。
「バニッジね……」
「うん、バニッジに見える」
香りがバニッジなら、見た目もバニッジになっている。
ぼくはリリーに焼き立てのバニッジを半分に割って渡す。
「崩れない。割れる」
「触った感じも、バニッジみたい」
食べてみる。
もそもそ。
もそもそ……。
……もそもそしているけれど。
「バニッジだわ……でも、いつも食べているのとは……少し違う気がする。温かいからかしら?」
「……そうかもしれないね。焼き立てだとちょっと変わってくるかもしれない。後は窯が違うからっていうのも考えられるけれど……でも、ちゃんとバニッジだ」
バニッジの生地を焼いたらバニッジになった。
バニッジはバニッジの生地を焼かないとバニッジにならない。それはそうだろう。
でも、それはつまりこれまでの生地はバニッジの生地じゃなかったってことだ。
バニッジの生地でない生地を焼こうとしたから、失敗した。
その可能性が高い。
「手作りの窯で、バニッジが焼けた」
窯はとりあえずこれでよさそうだとわかった。
あれ。
気付いたら目線が低い。リリーのスカートが目の前にある。
「と、トーマ!?」
リリーがびっくりして声をあげる。
ぼくはいつの間にかへたりこんでしまっていたようだった。
「いや、窯を作り直さなくてもよくなったと思ったら、安心して気が抜けて、なんか体の力まで抜けちゃったのかな」
「……窯を作るのは、大変だったものね」
リリーはしゃがみこんで、ぼくと目線を合わせると、穏やかに、小さく笑う。
「お疲れ様。トーマは、やっぱりすごいと思うわ」
「ありがとう」
そんな彼女の顔を見て、ぼくはもう謙遜するのはやめようと思った。
それに、〈わたし〉の知識も、〈ぼく〉が身につけた技術も、どっちも自分のものだ。どっちの自分も、自分なんだ。どっちがどっちでもないし、負い目や引け目を感じる必要なんてない。
深く呼吸する。
気持ちが落ち着いてくる。
リリーはしばらくそんなぼくの様子を見ていたけれど、急に慌てたようにそっぽを向いて、さっと立ち上がる。
「きょうは、もうおしまい?」
「そうだね。やりたいことはあるけど、それはまた明日やるつもり」
「そう。明日が楽しみね」
リリーは、きっと明日ぼくが何かをやり遂げるだろうとでも思っているような、どこか確信めいた口調で言う。
けれども、ぼくもまた、明日の試作三号の焼成実験で、これまでの試みにひとつの答えが出ることを確信している。
けれども、その翌日、ぼくが焼成実験を行うことはできなかった。