「おかえりなさいませ、旦那様」
爺をはじめ、屋敷の使用人が頭を下げる。
ぼくも皆にならって頭を下げた。
細かな作法があるわけではないらしく、特に整列したりもしないし、各々がそれぞれに頭を下げて出迎える。咎められることもない。
屋敷のホールに現れたのは、波打つ金の髪に獅子のような頬髭を蓄えた紳士と、同じく金の髪を短く切りそろえた青年、それから、彼らに続いて数名の使用人がやってきた。
「見慣れぬ顔があるな」と紳士が口を開く。
爺が前へ歩み出て「あらたに雇い入れた使用人見習いのトーマにございます」とぼくを紹介するので、ぼくも頭を下げ「トーマでございます。お初お目にかかり光栄にございます」と挨拶をする……挨拶、間違ってないよね?
紳士は「うむ」と頷いただけだったけれど、青年のほうはじろりとこちらを訝しげに見ていた。
この紳士が男爵のランスワードで、青年がレイフリックだろう。
「おおかたリリーが拾ってきたのだろう?」
レイフリックと思しき青年が言う。
「お兄様」と言ったリリーの声音には、若干の抗議の色があったけれど、身内の気安さならではと思う。貴族ってもっとドライなのかと思っていたけれど、リサンバー家はそうでもなさそうに見える。
「息災だったか」
「ええ、お父様。お父様もお変わりなく」
「うむ」
リリーも貴族令嬢然として見える。
そう振る舞っているのか。自然と身についたものなのか。
いずれにしても、いまぼくの中には、わあ、本物の貴族だ、という感慨がある。
レイフリックがぼくのほうへと近づいてくる。
つま先から頭までを一通り眺め、
「黒い髪に黒い瞳……異国の民か? どこから来た」
と、ぼくに問う。どこから……と言われても、ぼくにもわからない。
返答に困ったけれど、素直に話すほかない。
「……わたしは拾われ子でございます。牧畜の民に拾われるより前のことは覚えておりません」
「牧畜の民の子か。さもありなん」
レイフリックは興味を失ったようで、男爵のほうへと戻っていく。
牧畜民は身寄りのない子を引き取って育てる。ぼくもそうして拾われたらしい。大人も子供も放牧路であっけなく命を落とすことがあるから、人を育てて技術を継承することの重要性を、彼らはよく理解しているのだと思うし、だからこそ子を引き取るのだろうと考えている。
いずれにせよ、牧畜民の子供ならどのような民族であっても珍しくないし、出自がはっきりしないこともよくあることだから、レイフリックの反応も特別冷めたものというわけでもない。
何にでも興味を示すリリーのほうが変わっているんだと思う。
「旦那様。レイフリック様。久しぶりのお屋敷にございます。お疲れでございましょう。まずはおくつろぎになられてからご歓談なされては」
「うむ」
男爵はクロークを爺に預けると、クーシェルと何やら話しながら屋敷の奥へと歩いて行く。
「そういえばノルサントは今年も豊作らしいな。あちらからの行商人は——」
「ええ、旦那様、承知してございます——」
無骨で朴訥としているけれど、落ち着きと威厳がある。これが上に立つものだと感じさせる雰囲気を持っている。
男爵に続くレイフリックは、こちらは歳相応に見える。まだ二十歳前後じゃないかな。クーシェルよりは少し上に見える。リリーとは少し歳が離れているだろうか。振る舞いに男爵ほどの落ち着きがないけれど、まだ若いから仕方ないかもしれない。
リリーが奥の部屋に入る前、こちらをちらりと見て、少しいたずらっぽく笑った。
ちゃんとお嬢様でしょう?——そう言いたかったのかもしれないな、なんて思ったら、ぼくも自然と笑みがこぼれた。
「トーマさん」
爺が声をかけてくる。
「わたしたちはこれから旦那様のお世話をしますが、トーマさんはまだ見習いです。旦那様やお嬢様のお世話をするには早い。読み書きも、今日のところはお休みにしましょう」
自主的に取り組む分には一向に構いませんが、と爺は笑いながら言う。
つまりきょうは臨時の休日ってことかな。
休みがもらえるならありがたくもらっておく。それが模範的な社会人だと思う。
その場を辞して、ぼくは屋敷の外にある窯の様子を見に行くことにした。
と、思ったけれど、その前に準備をしておいたほうがいい。
あらかじめクーシェルに聞いて試しておいたものがある。
調理場にやってくると、ナーサラがいた。瓶からマグに何やら液体を注いでいる。果物の香りと、ほのかなアルコールの匂いがした。
「あら、トーマさん」
「ナーサラさんは、男爵様たちに飲み物を?」
「ええ、久しぶりに帰っていらしたから、マーメル酒をね」
マーメルは、リンゴのような、ナシのような、甘くてちょっと爽やかな香気を持つ果物だ。ただ、実はとても硬くて、生で食べるには向いていない。食べられなくもないんだけど、正直おいしくはない。すりおろしたり、煮たり、焼いたりして食べることもあるけど、だいたいは酒にする。
普段のお酒はヘラムギのエール。たまの贅沢に飲むのがマーメル酒。
というのが下級貴族の話で、上級貴族は普段からマーメル酒を飲むというし、一方で平民は年に数回しか飲む機会がない。
領内の村を回って久しぶりに帰ってきたのだから、今日はそのたまの贅沢に当たる日というわけだ。
「トーマさんは?」
「クーシェルさんにやり方を聞いて試してみたことがあって」
「ああ、こないだ何か聞いてたわね」
ぼくは言いながら棚から籠をかぶせた木の皿を取り出して、籠を取って皿の上のものを確認する。うん、できてるな。
「きょう試すの?」
「雨も止みましたから」
「そっか、外で焼くんだ……調理場の窯くらいトーマさんにも使わせてあげればいいのにね」
「でも火元の管理はちょっと厳しいくらいでちょうどいいと思いますよ」
ぼくはまだまだ余所者だし、うっかり火の不始末で屋敷を火事にでもしたらとてもじゃないけど責任を取れない。
「トーマさんは真面目ね。クーシェルもちょっとは見習ったらいいのに」
「あはは」
クーシェルはクーシェルですごいんだけど、それは言わないでおく。
さっきの男爵とのやりとりのそつのなさもそうだけど、調理使用人としての腕も悪くないと思う——ぼくが不満なのは食事の味ではなく、主に同じような献立が続くことに対してなので——。
何より、男爵家のエンゲル係数はとても低い。
これは爺の手伝いをしていて気付いた。計算ができることを知った爺が、ぼくに帳簿の手伝いをさせてきた。見習いのぼくが貴族家の内情の塊である帳簿を見ることがいいことかどうかはともかく、経費のうちで食費の割合が低く抑えられている。
爺に尋ねてみれば、クーシェルのおかげなのだと。
食材の目利きができ、市場の動向にも聡いので、とても助かっていると爺が言っていた。それで厨房係としてのクーシェルの手腕の巧みさを窺い知ったのだ。
家令が認めるくらいだから、確かなのだと思う。
ぼくが言うまでもなく、この家の使用人たちは、互いの能力や人となりをよく知っていて、確かな信頼関係を築いている。
ぼくがナーサラにクーシェルのすごさを語るのは、野暮ってもんだと思う。
それくらいは、ぼくにもわかる。
思えば、〈わたし〉は職場でそういう人間関係を築けていなかったような気がする。気付いたからって、何がどうなるわけでもないんだけどね。
それより、今は早くこれを焼くのを試してみたい。
はたして、うまくいくといいんだけど。