1.
領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

10. バニッジ

 窯は無事だった。
 中にちょっと水が溜まってしまっているけれど、崩壊したりもしていないし、水を抜いて掃除をすればふつうに使えそうだ。

 生地も持ってきてあるし、焼いてみようと思う。

 今回は生地を二種類用意した。
 見た目ではどちらがどちらかわからないので、区別できるように一方を丸くして、もう一方を四角にした。
 で、焼きあがったのがこれ。

 丸いほうも、四角のほうも、ちゃんと焼きあがっている。
 どちらもバニッジだ。

「一回で成功する予定ではなかったんだけど」

 ちょっと拍子抜けしている。でも、成功は成功だ。喜んでおこう。

 さて、焼きあがってはいるけれど……。
 四角のほうはちょっと食べるのをためらう。

 丸と四角の生地の違いは、丸が手製の生地にあるものを加えたもので、四角が完全手製の生地。
 丸のほうは何を加えたのかというと、バニッジの生地をひとちぎりしたものを生地に練り込んである。

 バニッジの生地とぼくが作った生地の違い。
 それは酵母じゃないかと思ったのだ。

 バニッジは生地を寝かせてさせてから焼いているんじゃないか——焼いているときの香りで気付いた。パンは発酵の過程で、アルコールやエステルが作られる。これがパンの風味に影響する。醗酵させない生地より醗酵させた生地のほうが、焼くときの香りに特徴があったから、もしかするとそうなんじゃないかと思った。
 実際、バニッジは生地にバニッジ種を加えて作る。
 クーシェルに話を聞いてわかった。
 最初から聞けばよかったな。でも、自分で気付いたことには意味があると思う。

 醗酵させてもバニッジはほとんど膨らまない。生地を寝かせても膨らんだりしないから、たぶんバニッジの生地は内部にガスを蓄えることができない。どこからガスが抜けるのかはわからないけど。
 それでも醗酵させた生地のほうが、生地に粘りがあって、焼きあがっても崩れないでまとまったままの状態を維持できる。
 これは完全に想像でしかないけど、何らかの酵素の働きでたんぱく質が分解されて、それが生地にまとまりを与えているのだと思う。
 
 バニッジが膨らまないから、完全に醗酵のことは頭から抜けていた。無醗酵パンだと思いこんでいたのだ。

 四角のバニッジの生地は、ぼくが自分で醗酵させて作った。
 ヘラムギの粉を水で溶いて、ある程度暖かいところで寝かせる。
 これはいくつか試した。雨が降っている間は本を読む以外に何もすることがなかったので。本を読める時間も限られていたし。
 温度が微妙だったのか、失敗作もあった。あきらかに異臭がするものは捨てた。
 一応、匂いや見た目に異常がなくて、もらったバニッジ種に近いものを選んだ。
 それでもやっぱりなんというか衛生状態に不安がある。やばい菌とか繁殖してないかなという不安。
 この世界は食べものどころか動物や植物もだいぶ違うから、菌もそうだと思うけど、だからといってこの世界に固有の危険な菌がいないわけはないと思う。

 もしぼくがこの世界に転生でなく転移してきていたら、未知の病原菌に冒されて死んじゃったりするんじゃないかな、みたいなことを思ったりするけど、転移ってどういうことなのかよくわからないし、そもそも転生もよくわからない。〈ぼく〉主観で見れば、転生ではなく、異世界の知識を急に手に入れた、というふうに理解することもできるし。

 話がれてしまった。
 ともかく、そういうわけだからちょっと食べるのをためらったりしたんだけど、よくよく考えてみるとこの世界の衛生事情はそんなによくもない。
 今更だよな、と思い直したところで、二つのバニッジを食べ比べることにした。

 まずは丸から。端を割って一口。

「バニッジだ」

 これはバニッジ。次は四角。同じように端を一口——

「——酸っぱ! なんじゃこれ酸っぱ……」

 焼いてるときは香りも特に気にならなかったけどな。乳酸醗酵でもしたのかな。
 ……お腹壊したりしないよな。一口だけにしといてよかった。

 さて、こうなってくると見えてきた。
 醗酵はする。炭酸ガスも多分出てるだろう。生地が膨らまないのは、そのガスを閉じ込められないから。ガスを閉じ込められないのは、コムギグルテンのようなガスを閉じ込めるのに適したグルテンを持たない、つまりヘラムギグルテンではガスを閉じ込めるのに適した組織を作ることができない。

 これはあれだ。
 ヘラムギグルテンが生地に弾性を与えるのに充分でないなら、コムギグルテンの代わりになるものを加えてあげればいい。
 そういうアプローチがあることを、〈わたし〉は知っている。
 しかし果たしてこの世界で手に入るだろうか。
 むずかしいんじゃないかな、という気しかしないけど、ひとまず屋敷に戻ったら、また植物事典と向き合う必要がありそうだ。


 焼きあがったバニッジと酸っぱニッジを手土産に屋敷に戻ったら、リリーが不機嫌な顔で出迎えてくれた。

「何かあったの?」

 尋ねてみても、リリーは無言でぼくの手を見るだけだ。
 手、というか、手に持っているものを見ているようだった。

「ああ、これ。焼けたよ」
「そうじゃなくて!」

 ぼくに詰め寄るリリー。近い、近いよ。

「どうして一人で焼いちゃうの!」
「時間が余ったから」
「次焼くときはわたしも呼ぶこと。絶対だからね」

 とはいえ、リリーとぼくとは立場が違うし、それぞれに予定があるんじゃないかと思うけれど……とはいえ、今回はぼくが悪かった。

「かしこまりました、お嬢様」
「本当にお嬢様って思ってる?」

 ううん、あんまり、と、口には出さなかったけど。

「さっきのリリーは、お嬢様っぽかったよ」
「ぽいじゃなくて、男爵家の娘よ。れっきとした……まあ、いいわ。それ」

 リリーが手のひらを差し出す。

「ああ、これ……こっちは食べないほうがいいから、これ」

 バニッジを割ってリリーに渡そうとすると、彼女はあろうことかぼくの手から酸っぱニッジのほうを奪い取って、それをちぎって……ああ、食べちゃったよ。

「~っ!?」

 口をすぼめて、思いっきり顔をしかめている。

「な、なにこれ。酸っぱい……うう……トーマったら、何を入れたのよ」
「そっちは失敗作。だから言ったじゃない」
「失敗作……」
「そう。っぱいってね」

 なんてね。ふふ。
 リリーはきょとんとしている。

 日本語に訳したら駄洒落になることでも、ぼくの口から発せられるのはイズ語のセンテンスなので、駄洒落として成立しないからね。とても悲しい。

 気を取り直して、もう片方のバニッジを割って、かけらをリリーに渡す。

「こっちは、ちゃんと成功してるから」
「……バニッジね。この前のと何か違うの?」
「同じだよ。いや、生地は自分で作ったけど」
「それじゃ、バニッジが作れるようになったのね?」
「そういうこと」
「そう。おめでとう、トーマ」
「ありがとう」

 そういうリリーも嬉しそうで、まるで自分のことのように喜んでくれているように見える。ぼくよりも嬉しそうなくらい。
 ただ、ここからが大変というか。
 ようやくスタートラインに立ったところだと思う。

 そういうわけで、次に休みをもらえたらぼくはちょっと遠出をしようと思うのだけど……この好奇心の塊みたいなお嬢様がついてくるって言ったら、ぼくは止められる気がしない。


 ぼくがバニッジを焼き上げたことは、クーシェルから爺の耳にも入ったようで、翌日から、クーシェルの監督下なら、調理場を使う許可をもらうことができた。
 さすがに材料使い放題っていうわけにはいかないけれど、外の窯を使わなくてもよくなったのはありがたい。天候に左右されなくてよくなるからね。
 ただ、そのかわりにぼくは使用人のまかないを作る手伝いをしなければいけなくなったんだけど。

 もしかして、ぼくの仕事増えてない? しかも自分で増やしてない?

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