「失敗作って、どういうこと? あんなにもおいしかったのに。見た目だって、とても印象的だった。赤い食事は、間違いなく貴族の間で流行する——あたらしい文化の発信元になれる——お父様はそう言っていたわ」
「料理としてはね。でも、あの料理は、今のところぼくにしか作れない」
「え、でも、作り方がわかれば——」
「たとえば、この屋敷の使用人でも、作り方がわかれば再現できると思う。でも、その作り方にこそ価値がある」
「それは、どういう……あっ!」
「そう。作り方を広めてしまったら、この領地の名産にはならないよ」
「で、でも、だったら作り方を限定して広めれば……」
「真似をする人が出てくる。ううん、真似をする人が出てくるのは、いいんだよ。真似して失敗する人が出てくるほど、原典の価値が高まる。でも、この料理に失敗は許されない。ちゃんとした作り方で作らないと、死人が出る」
ぼくの言っていることを過たず理解して、リリーは絶句する。
「弱い熱でじっくりと焼く調理法が普及したらいいとは思うけど、普及するまでに正しくない調理法が広まったら? それによって苦しむ人が出たら? そう考えたら、この料理を普及させようって気は起きない」
「それは……」
「それにね。ぼく自身、あの料理を完璧に作ることはまだできてないんだよ。リリーに出したアヒルバトのローストを作るのに、あの倍以上の量の失敗作が出てる」
「それって、作り方がわかっていても失敗する……っていうことよね?」
ぼくは頷く。察しがよくて助かる。
「でも、どうして?」
「肉の色が変わる熱さっていうのは、肉によって違うけど、だいたい決まってるんだ。アヒルバトの場合は、湯が泡立つよりも少しぬるいくらい……熱くて指を入れられないくらいの熱さで、半時間から一時間。同じ熱さに保ったまま火にかける」
「そ……そんなこと、できるわけないじゃない!」
「そう。かまどに薪をくべて同じ火の強さに調整するなんて、ふつうはできない。だから、ぼくはパン窯を使った。窯の中をあらかじめ熱しておいて、そこにアヒルバトの胸肉を入れる。ときどき向きを変えながら、まんべんなく火が通るように焼いて……それでも成功したのは、ゆうべリリーに出した分だけ」
リリーは唖然として立ち尽くす。
「火の熱さを目で見ることはできないし、一定の熱さに火を保つような調理器具もない。だから、まだこの国では、アヒルバトのローストという料理を普及させることはできない」
牛肉は多少生焼けでもどうってことないから、ローストビーフだったらよかったんだけど、マウシカの肉だったら大丈夫かどうか自信がない。カモシシやアヒルバトも豚肉や鴨肉とは違うから、ひょっとすると大丈夫かもしれないけど。昨日食べたものにしても、実は充分に菌を殺しきれてませんでしたという可能性はある。
いずれにせよ、ぼくの実験——充分な温度管理ができない環境でも低温調理を実施できるかどうか——という至って無謀なそれは、当然失敗に終わったのだった。
ぼくの言葉に、リリーは「はあ」とため息をひとつこぼして、諦めたような表情で項垂れる。
「せっかくこの領地を盛り立てるいい機会だと思ったのに……本当に、残念だわ」
「それ、聞こうと思ってたんだった」
「なに?」
「その、リリーも男爵様もだけど。どうして男爵領を盛り立てたいの? そんなに領地運営が思わしくないようには見えないけど」
「そうね。順調だと思うわ。ふふ、何しろお父様が領主だものね」
昨日のちょっと情けない姿を思い出すとちょっと微笑ましい気もするのだけど、何も言わないでおく。
「でも、順調だけれど……いつまでも順調なわけは、ないでしょう?」
「それは、もちろん」
「だから、この領地を盛り立てる手立てがあれば、みすみす見逃したりしない。お父様も、わたしも」
それにしては、ちょっと切羽詰まってるような気もするけど……とぼくが尋ねるより前に、そんな考えを見透かしたように、リリーが真剣な顔で言う。
「今は、この国も、男爵領も、とても安定している。平和そのものだわ。でも、いつなんときその平和が終わるともわからないのよ。この大陸の中央、ノルサントの更に東では、中原の覇権を巡って争いが続いている。ノルサントは大国だから、今は巻き込まれないで済んでいるけれど……もしノルサントが滅びれば、伯爵領に戦火が及ぶわ。その次は、どこかわかる?」
ぼくは頷く。
伯爵領は、レシャー男爵領の東隣にある。もし伯爵領が陥落すれば、次はもちろん男爵領だろう。
「でもちょっと待って、この領から文化を発信するのはいいとして、それが中原を巡る争いと何の関係が」
「直接は、関係ないわ。けれど、この領を守るための備えをするには、それだけお金がかかるでしょう? お金を集めるためには」
「売るものを用意して、人を集める——ために、文化を発信するのか」
「そのとおり」
よくできましたと言って、リリーはぼくの鼻先を指でちょんと押す。
「わぷっ」
「ふふっ、変な顔……ふふっ」
リリーの手を払い除けて、ぼくは憮然 とした顔をしてみせる。
「ねえ、いつだったかもこんなことしたわよね」
「覚えてるよ。まったく、リリーってば……」
リリーは口元に手を当ててくすくすと笑って、それから不意に、また真剣な顔でぼくに向き直る。
「ごめんね、トーマ。わたしがトーマに料理を作ってほしいなんてお願いしなかったら、調理場への立ち入りを禁じられることもなかったのに」
「ううん、いいんだよリリー。別にぼくは、調理場じゃなくたってどこでだって料理は作れるんだから」
「でも……」
「ぼくのほうこそ、ごめん。リリーのお祝いの席を台無しにしてしまった」
「そんなこと!」
思わず強い口調になったことにはっとしたように、リリーは一度口をつぐむと、ややあってから、ゆっくりと……一言ずつ確かめるようにして、ぼくに言う。
「そんなこと、言わないで。わたしは、嬉しかったから。トーマがわたしを驚かせようとしてくれたのが、とてもよくわかったもの」
「うん、わかるよ。最初はお嬢様らしくしようとしてたのに、途中からなしになっちゃってたもんね」
「そ、それは言わないでよ!」
リリーは顔を真っ赤にして、ぼくの二の腕をぺしぺしと叩く。
くすぐったくて、心に暖かなものが降りてくるのを感じる。
ありがとう、リリー。
心の中だけで言う。
「ね。お互いがお互いにごめんねってしてたら、キリがないよ。それに……どっちにしても、パン作りはちょっと行き詰まってたから、息抜きにちょうどよかったかも」
「え、でも、確かパイ……といったかしら。あれは、パンを作ろうとしてできたものじゃないの?」
「そうといえばそうなんだけど、あれじゃまだパンには程遠いよ」
パイの生地ではパンを膨らませるために必要な弾性には全然足りていない。
「糊みたいなものがあればいいんだけどね」
「糊、ね……あれ……? 糊……糊は……誰から買っていたかしら……? 行商人……? 違うわね……」
「糊があるんだ」
「ええ、下級貴族はあまり使わないのだけれど。上級貴族を招くときにはテーブルクロスを敷いたりするから。糊付けするとぴんと伸びて、気持ちがいいのよ」
「お嬢様なのによく知ってるね」
「ナーサラが糊付けしてるところを以前に見かけたのよ。何してるのって聞いたら、教えてくれたわ」
胸を張ってリリーは言う。
ぼくは「物知りだね」って意味ではなくて「相変わらずなんにでも興味を示すね」くらいのつもりで言ったんだけど、たぶん伝わっていない。
「まあ、リリーらしい、ね……? あれ?」
ふと気付く。何か違和感がある。
「そういえば……きのうはテーブルクロスなかったよね」
きのうの料理は全体的に赤かった。白いテーブルクロスが敷かれていたら、もっと目立っただろう。
「身内だけのときは、テーブルクロスは使わないわ。糊も貴重なのだし」
なるほど、糊が貴重なら、テーブルクロスは使わない。
いや、糊はぜんぜん貴重じゃないと思ったから、どうして昨日はテーブルクロスを使わなかったのかと思ったのだ。
糊がどうして貴重なのか。
買わなくても、ヘラムギからでもカブイモからでもでんぷんが採れるし、これを糊にすればいい。
「さっきも糊を誰かから買ったって言ってたけど、買わなくても、糊ならヘラムギから採れるんじゃない?」
「ヘラムギの粉を糊にするなんて、もったいなくてできないわよ」
「じゃあ、いったい何を糊に……?」
と、首を傾げたときだった。
「な、なに?」
足元がぐらぐらと揺れる。
遠くで唸るような音が響くのが聞こえる。
「ち……地揺れだ!」
大地が、揺れていた。