1.
領主の娘とパン
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まぼろし国の食卓より

33. あれから糊を作れるのはあれがあれしてるから

「たとえば、餌以外の理由で移動しているとするね。日当たりの良いところに移動するとか、幻素の濃かったり薄かったりするところに移動するとか、っていうのはあるかもしれない」
「うん」
「でも、もし幻素を食べていて幻素だけで生きていけるなら、魔境の中で移動する必要ってあるのかな。特に、この間みたいにわざわざ魔境の外ぎりぎりみたいな、幻素の薄いところにやってこなくてもいいよね」
「確かにそうね」
「日当たりにしたってそう。ずっと日当たりのいいところにいればいいんだよ。日当たりのいいところが好ましい草や木は、だいたい日当たりの良いところに生えてる。自分にとって都合のいい環境があれば、そこから動かなくていい。動くってことは、せっかく手に入れた活動力を消費するってことなんだから」
「だから、何か目的があって移動してるのなら、食べ物を得るためにってことね」
「そういうこと」
「でも食べ物が植物とは限らないんじゃないかしら」
「虫とか小さな動物かもしれない。でも、コボロのあの鈍い動きで捕まえられるかな?」
「それは、そうかも」
「だから雑草を食べているって考えるのが一番自然で、そう思って師匠にもコボロが何を食べているのか聞いたんだけど、やっぱり雑草に間違いなかった」
「それを早く言いなさいよ」

 リリーは脱力してため息を漏らす。

「ごめんごめん」
「でも、まずは雑草を食べているところまでは納得したわ。だから中身も雑草みたいなものだっていうのもね。でも、だったらどうして雑草からは糊が作れなくて、からは糊が作れるのかしら」
「ねえリリー」
「なに?」
「さっきからコボロのことをずっとって呼んでるけど……」
「あ、でいいじゃない。通じるんだから」

 名前を口にするのもはばかられるらしい。
 まあ、名前を出すと姿かたちまで想像しがちだし、気持ちはわかる。

「ええと、話を戻すね。コボロからどうして糊を作れるのかだけど」
「うん」
「たとえば、最初に焼いた試作パンのことを覚えてる?」
「パンっていうと、トーマの頭の中にだけある想像上の食べ物よね」

 そうだけど。

「窯が出来上がって最初に焼いた、ぼろぼろのパンがあったでしょう」
「ああ、あの粉っぽくてすぐぽろぽろ崩れちゃう」
「あれとバニッジの違いが、雑草とコボロの違いなんだけど」
「どういうこと?」

 頭上に疑問符が浮かぶのが見える。

「それか、ミルクとチーズの違いとか。マーメルとマーメル酒、ヘラムギとエールの違いでもいいや」
「わかった。醗酵だわ」

 ぼくは頷く。

「そうすると……が雑草を醗酵させると、糊ができるってこと?」
「証拠はないんだけどね」
「醗酵でどろどろになる……ミルクがチーズになるものね。でも、それって腐ってるのと何か違うのかしら。肉だって腐ると糸を引いたりするようになるじゃない」
「なるほど?」

 確かに腐敗と醗酵は現象としては同じものだ。人間にとって有益かそうでないかの違いでしかない。

「トーマがお腹を壊したのって、腐った草を食べたから……じゃないのかしら」
「まあ待って、まだ糊のせいでお腹を壊したとは決まってないから」
「ということは、他にも何かお腹を壊しそうなものを食べたのね」

 はい、ぼくの負けです。


 実のところ、ぼくはコボロの糊以外にもいろいろ試していた。
〈わたし〉の世界でのグルテンフリーパンがそうであるように、雑草の種や樹液からも増粘剤が得られる可能性があると思ったからだ。そういうわけで、いろんな雑草の種を集めたり、樹液を採取したりした。
 結果はぜんぜんダメで、増粘剤になるようなものは見つからなかった。
 もっとも、有用なものが見つかるんだったらが採取して売ってるはずで、牧人の〈ぼく〉の記憶にそのようなものがないっていうことは、つまりこのあたりにはないということ。そんな気はしてたよね。
 でもせっかく集めてきたので、それぞれ味見くらいはしておこう……後から考えてみれば、これじゃ体調を悪くしたところで何が原因なのか特定できないじゃん。
 それで今こうして困っているというわけ。

「雑草が腐って糊になるなら、糊なんてどこでも手に入るものね。ただ腐ったとかじゃなくて、醗酵しているっていうのは、そうかも」
「うん。チーズもエールも、ただ放っておくだけじゃ腐るだけなんだけど、ちゃんとした方法で、腐ったミルクや腐ったヘラムギ汁じゃなくて、チーズやエールになる。糊もきっとそう」
「そのちゃんとした方法を、コボロがやっているってこと?」
「醗酵は自然に起こることもあるけど、それは何かが働いてそうなってる。自然の中にあっても、偶然に起こったりはしない」
「待って。ということは、その方法がわかったら糊を意図的に作れるってこと?」
「あー、そうなるかな。どうやったらいいのかわかんないけど」
「それはそうね。今は置いときましょ。ひとまず、糊は雑草が醗酵してできたものっていうところまでは、わかったわ」
「うん」
「じゃあ、それを食べようとしたのはどうして? 食べられるかなって思ったからとかじゃないわよね。あ、待って。もういい、なんとなくわかったから」
「前に、糊みたいなものがあったら生地に粘りが出るかもって話したじゃない」
「あーもう、わかってた。わかってたのよ……それってつまり、トーマの言うパンの材料に、を使うということでしょう?」
「うん。パンが出来たらリリーにも食べ「ぜっ、た、い、に、食べないからね!」

 どうして……どうして……。


 それから小一時間、ふわふわのパンのためにどうしても糊が必要だということを説得して、最後にはリリーは渋々ながら頷いて、試食に同意してくれた。

「で、そのふわふわのパン? は、どこにあるのかしら」
「ないよ」
「え?」
「ふわふわのパンはありません」
「なかったら作ればいいじゃない……いえ、そうだわ。ええと、作れないってことかしら?」
「正確に言うと、まだ作れない。作り方がわからないので」
「じゃあ、試したら作れるようになるのね」

 リリーは確信を持って言う。信頼されているようでくすぐったい。光栄なことなんだけど、大変申し訳なくも思う。

「あー。うん、そうなんだけど」
「なんだか歯切れが悪いわね」

 なぜなら。

「糊、使い切っちゃった」
「ばっ……えっ……バカなの!? それともバカなの!?」
「バカって二回言ってる!」
「それくらいバカってことよ!」

 どうして残しておかないのよ、とか、だったらさっきの説得は何、とか、わたしの決意と覚悟を返して、とか、だんだんいたたまれなくなってきた。
 本当にごめんって。でも気付いたらなくなってたんだよ。
 不思議だね。

「ぜんぜん不思議じゃないわよ!」

 そういうわけでふわふわのパンの完成は、もうしばらくお預けになる。なった。

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