雨の日には紅茶を。それが彼女の不文律らしい。
彼女の名前は、霧原希更という。ぼくはこの名前を復唱するときに、三回噛んだ。
情報科学研究部の部員にして、部長だ。
部室の窓際、いつもの席に座る。目の前には、キーボードに液晶ディスプレイ。窓の外は雨。今は五月の下旬。
彼女は優雅な仕草でティーカップを傾ける。カップに口を付け……。
「あつっ」
慌てて離す。
彼女は猫舌だ。
けれども紅茶はホットに限るのだという。
睨まれた。口元が緩んでいたかもしれない。
あれから。
変なあだ名をつけられて、ぼくは、まあ結局彼女の言うとおり入部したわけだけど、あれからもう一ヶ月以上経っている。ぼくも、この部室での日々にちょっとだけ慣れつつある。
部に入部する条件は、ちょっと厄介だった。
ひとつ。緊急の用件がない限りは、出席すること。
ふたつ。月に三冊以上のSFを買うこと。
みっつ。買ったら部室に置くこと。
三つ目はともかくとしても、一つ目は特に厄介で、ぼくにとってこれは一番避けたいところだった。
振る舞いはちょっと考える必要がある。
初めて会ったときのあの一件以来、彼女は油断ならないということを知ったぼくは、下手に取り繕ったりするより、かえって自然に、いつも教室でそうしているように、空気に徹するほうがよさそうだと思った。彼女はあまり口を開かない。ぼくも彼女に話しかける言葉を持っていない。
それでうまくいった。
そしてそのうちに彼女と同じ部屋にいてもそれほど緊張しなくなった。
初めからごく自然に、とはいかなかったが、最低限のコミュニケーションを交わすうちに、それなりに慣れてはきたと思う。一つ目の問題は、要するに時間が解決してくれたのだ。
二つ目も頭を抱える問題だった。月に三冊のSF、というのは、小遣いの半分くらいを持っていかれる、それくらいの出費だ。ハードカバーを買おうものなら、それだけで使い切ってしまう。ただ、選別はぼくの裁量でいいので、まったくの無駄遣いをしろ、という話ではないから、許容できないというほどでもない。
なにより、放課後の時間を部室で過ごすから、時間を潰すための無駄遣いがなくなった。部室から本を借りて家で読んだりということもよくするし、経済面での心配もどうやら杞憂だったらしい。
三つ目は問題にならなかった。ぼくは部室から本を借りていっていい。これはぼくが置いた本についてもそうらしい。ぼくが買った本を、彼女が読みたいときに読めればいい、という程度の条件だった。
そういうわけで、当初の懸念をよそに、ぼくはまあそこそこ居心地のいい居場所を確保することに成功したといえる。
慣れてくると余裕が生まれる。余裕を持つと、人間はだいたい余計なことを考える。
あるとき、ぼくは彼女に聞いてみた。
「あの、なんでSFなんですか? ここって情報科学研究部、ですよね」
「それが分からないなら、まだ一人前の部員ではないよ」
あっさり一蹴された。
またあるときは、こんなことを。
「ここって、どうして情報科学研究部なんですか? コンピュータ部とか、コンピュータ研究部とか、そういう名前じゃなくて」
「コンピュータ研究部はもうあるんだ。きみはまだ情報科学の授業を受けていないかもしれないけど、コンピュータ学習室という部屋があってね。この文化部棟じゃない、本校舎のほう。そこを使っている部活動があるんだ」
なるほど。
もしかして、初めからそこを目指してたら当初の目的は達成できてたんじゃないだろうか。今更ではあるのだけど。
「あれ、じゃあ部長はなんでコンピュータ部じゃなくて、この部に入ったんですか?」
「ばかだなケロスケくん。コンピュータ部じゃきっとSFは読めないよ」
「だからなんでSFなんですか……」
「それが分からないなら」
そこから先はご想像のとおりだ。
彼女、霧原希更は、決して口下手なわけではなかった。一度口を開けば、よどみなくすらすらと喋る。ただ、必要だと判断しない限りは口を開かない。それでコミュニケーションは成立するのかもしれないけれど、これはクラスの中では孤立するんじゃないかな。余計なお世話だけど。
それから、彼女は見た目よりも感情豊からしいということも、最近気づいた。
いつも平坦な感情で、喜んだり怒ったりしないんじゃないかと思っていたけど、今日のように、ぼくのことをじろりと睨みつけたり、ということくらいはする。もしかすると、初めてぼくがこの部活を訪れたときも、怒っていたのかもしれない。
紅茶を飲んでいるときは、心なしか嬉しそうな気がする。雨の日も、だ。
なぜかは知らない。ただ、なんとなく普段とは違うらしい、という気はするのだ。
少なくとも、彼女は雨が降らない限りは紅茶を飲まない。
気になって、そのことについて聞いてみたことがある。
「どうして雨の日に紅茶を飲むんですか? 普段は飲まないですよね」
彼女はしばらく考え込むようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「習慣、かな」
普段ならはぐらかすであろう、彼女が、だ。
「ですか」
沈黙が部屋を支配する。
不意に、部長が言った。
「家に帰る途中、傘を持っていないのに雨が降ったら、きみは困るよね」
「え? あ、はい。それは困りますよね」
「わたしも当然困ったんだ。でも運がいいことに、わたしはそのとき喫茶店のすぐ手前にいた」
「雨宿りできたんですね」
「そう。わたしはその喫茶店で雨をやり過ごして、それから無事に家に帰った」
「よかったですね」
「よかった」
それきり部長は黙ってしまい、再び部室に静寂が降りる。
「え、それだけですか?」
「それだけだけど」
「ほかになにか……」
「ほか、とは」
本当に何もないらしい。
「ああ、いえ、なんでもないです」
「そう」
それでその日はそれっきり言葉を交わすことなく部活が終わったのだった。
もうひとつ気になったことがあったので、これも聞いてみた。
ぼくは何の活動をしているのだろう?
情報科学の研究をしているとは到底思えない。彼女はSFとは指定したけれど、コンピュータが出てくるものを、とは言わなかった。だからこの本棚のラインナップは、コンピュータが出てくるかどうかとは無関係だと思う。ぼくが知っていたのが、たまたまコンピュータ絡みかもしれない、というだけで。
「きみは、正直に言ってしまうと、数合わせなんだ。だから、どんな活動をしていてもかまわない」
「ということは、部長は情報科学の研究をされてるんですか?」
「全然。見てのとおり、読書だよ」
「えっと……そのPCは?」
「ああ、これか」
ディスプレイを撫でる。
黒いディスプレイに、白い指先。コントラスト。ぼくは、ほんのちょっとだけ見とれた。
「そういう意味では、確かに情報科学の研究をしていることになるのかもしれない。といっても、スクリプトを書いて走らせるだけでは、ね」
「スクリプト? って、プログラムが組めるんですか?」
「そんなにたいしたものじゃない。誰にでも書けるコードだよ」
誰にでもは書けないんじゃないだろうか……と思ったのだけど、そう言った彼女の顔はなんとなく寂しそうな気がして、それ以上何も聞けなかった。
ただ、少なくとも、この部はまったくの有名無実ではないらしい。部長の主観がどうあれ、客観的には、プログラミングをするというのは充分情報科学研究部の活動に値すると思う。
自信はない。ぼくは門外漢だし、部活動として認められるか水準かどうかもぼくには判断できない。ただ、端には引っかかるんじゃないか。そんな気はする。
本を読みながら、気付く。
そういえばキーボードを叩く音を聞いたことはなかったんじゃないだろうか。
意識していなかったから、鳴っていても気付いていない、ということは充分ありえる。
PCはマウスだけでも結構操作できる。たまに入力するくらいだったら気付かなくても不思議ではないかもしれない。
まあ、気にしても仕方がないことか。ぼくは読書を再開する。
六月を間近に控えたある日のこと。
授業を終えて、いつものように部室にやってくる。
ドアを開けて中を入って、
「あれ?」
部長がいなかった。
というか、また鍵を開けたままにして出ていったのかな。
また、といっても、こういう事態はこれが二回目で、一回目というのはつまり、ぼくが初めてここにやってきたときのことだ。
以来、ぼくより先に部長がもう部室にいるか、部長より早く部室にやってきて鍵が開いてないから部長が来るのを待つ、という二つのパターンのいずれかにきっちり分けられた。
もしかしたら何かあったんだろうか。
一瞬そんなことを考えたけど、これまでのおよそ二ヶ月間たまたまそういった事態に遭遇しなかっただけ、という可能性は充分にある。
後でそれとなく注意しておこう。ああ見えて抜けてるところあるし。
そう考えて、ぼくは本棚から一冊本を抜き出し、パイプ椅子に腰掛け、いつもどおり読書に勤しむことにした。
今日は、『スラムオンライン』を読もう。
雨の環境音を聞きながら、ぼくは『スラムオンライン』をただただ読んでいた。
リアルワールドについての描写がいちいちヴァーチャルな表現を用いられているのにため息を漏らしながらページをめくっていたら、足音に続いてドアが開く効果音が鳴った。部長が来たのだ。
「おはようございます」
「ん」
これくらいの挨拶は交わすようになった。
「部長」
「なに」
PCからビープ音。ディスクのシーク音。彼女がぼくのほうを向く。
「部室、開けっ放しでしたよ。物騒じゃないんですか? って、これは、ぼくがはじめてここに来たときも思ったんですけど」
「ああ」
「たとえば、そのPCのディスプレイ。結構しますよね」
「いくらだと思う?」
彼女は逆にぼくに問いかける。
「え、二万円か、三万円か……それくらいしますよね」
「はずれ。これは一万三千八百円」
「えっ」
ぼくは呆然とした。
そんなに安いのか……。
「ちなみに、こっちのキーボード。いくらだと思う?」
「えっと……三千円、くらいですかね」
「はずれ」
ええ?
見た目シンプルそうだったから、機能を絞った低コストなものだと思ったのだけど。
しかし高機能なキーボードは、一万円前後くらいするし、そうなのかもしれない。
「実は、このキーボードの方が、このディスプレイより高い」
「えっ」
「わたしがキーボードを打っている音、気付かない?」
まさか。
ぼくは恐る恐る彼女に尋ねる。
「もしかして、今打ってます?」
「うん」
「!」
「嘘だよ。さすがに無音は無理」
ほんの少しだけ、口の端を持ち上げた、ような気がする。
「脅かさないでくださいよ……」
「けれどね、世の中にはそれくらい、キーの打ちやすさのためにお金を出すひとがいるってこと」
「はあ……」
「ちなみにこれの値段は二万ごせ……」
「いいです! 知らなかったことにします!」
どうやって買ったんだよ。部費……? 監査入ったらあっさり廃部にさせられるんじゃないのか?
「あ、それから」
「はい?」
「きみが初めてこの部室に来たときは、わたしは入部届をもらいにいっていたの。仮入部期間が始まるからね。そして中には、入部届を忘れたままやってくる人もいるんじゃないかと考えた」
「ぼく持ってましたけどね」
「そうだったのか……」
「何にしても物騒は物騒ですよ。高いなら尚更です」
「ああ、そっちの心配は要らないよ」
そういって彼女は入り口の方、天井の隅を指差す。
示されるまま、ぼくはそちらを見る。
「……あ」
天井に無機質な目がぶら下がっていた。カメラだ。
部長の方を振り返る。彼女の手には、全面タッチパネル液晶のスマートフォン。
「これで監視できるんだ」
そうか。
そのときぼくは初めて気が付いた。
「もしかして、ぼくがあれこれ触っていたのとかも」
「ああ、しっかり記録されてるよ。ケロスケくんが、本棚に並ぶ背表紙に興味を惹きつけられていたのも、全部」
顔が熱くなるのが分かる。
うわあ……。
うわあああ……。
「あそこで真っ先に『祈りの海』を選ぶのは、予想外だった。いい趣味してるね」
「も、もうやめてください! ちょっと本気で思い出して恥ずかしくなってるんで……」
ぼくは不貞腐れたように、『スラムオンライン』を再び開いて、ページ上の活字の羅列に目を落とす。
ぜんぜん集中できなかった。
そういえばその日、彼女は紅茶を飲まなかった。
ぼくがその報せを知ったのは、それからしばらくしたある日。六月半ばのことだった。
雨の降る日だった。
『部活の統廃合を検討しています』
掲示板の一角に、そんな見出しの張り紙。
いわく。
『文化部棟の部室数が不足し、新たに部活動の設立を行おうとした場合、部室を確保できない可能性があり、早急に対処が必要との申し出を受け、部活動の統廃合を検討することにいたしました。
類似の活動を行っている部はそれぞれひとつの部としてまとめ、また、活動のために部室を使用する必要性の低い部については部室の利用を見直すとともに……』
……つまりどういうことだ?
情報科学研究部は、類似の部活動にコンピュータ研究部がある。
また、部員数から言っても、部室を使う必要性は高いとは言えないだろう。
統廃合?
待て待て、まだなくなると決まったわけじゃない。おそらく、コンピュータ部と統合される方向に落ち着くだろう。類似の部は統合、と考えるのが自然だ。
統合なら、部がきれいさっぱり消えてなくなるわけじゃない。
何をそんなに心配している?
いや、だめだ。
部を統合するということは、ぼくは、慣れない環境に放り出されるということなのだ。
だから、何がだめなんだ?
いやだったら幽霊部員になればいいじゃないか。
もともとそのつもりだったのだし。
そうか。
ぼくが心配することなんて、ない、のか。
そう思い込もうとしても。
ぼくはまったく頭を切り替えることができなかった。
その日、梅雨入りが発表された。
これから短いようで長い、雨の季節になる。
部室に着くなり、ぼくは部長にこの件について聞いてみようと思っていた。
けれども、部長はいなかった。部室が開いていなかったのではなくて、開いてはいたけど、もぬけの殻だったのだ。
彼女が部室を開けたままどこかへ行くというのは、多分ちょっとした用事のつもりで、という場合になるのだろう、ということは、前に聞いた話でなんとなく分かっている。
どこへ行ったのだろうか。
心当たりはいくつかある。多分、部長は部の統廃合についての話を聞きに行っている。このタイミングなら、そう考えるのが妥当だと思う。
とすれば、多分生徒会か、職員室か。
あるいは。
ぼくはそのとき、らしくもなく、自分から、自発的に、何かしよう、何をするのか決して具体的でも明確でもないけど、なんとなく、という非常に曖昧な動機で、行動を開始した。ぼくにとっては、本当にナンセンス極まりないことだ。
けれども、説明はつかないけど、ぼくはそのとき、そうしなきゃいけなかった。
少なくとも、そうしなきゃいけない、そう感じていた。
表札が示す部屋の名前は、コンピュータ学習室。
コンピュータ研究部の部室だ。
ノックしようとしたら、ドアが開いた。
「あ、なに、見学者?」
「え?」
見学者ってどういうことだろう。四月ならまだしも、こんな時期に、だ。
「いや、ほら、見たでしょ、掲示板。あれでさー自分とこの部がなくなるかも!って受け皿探してる一年、結構いるんだよ。うちは大所帯だし、入れるかもって思ってくる子が多いんだよねー」
コンピュータ研の部長、だろうか。
「はあ」
「きみもそういう口じゃないの?」
「いえ、あの」
最後まで言い終えるより早く、コンピュータ研部長氏は堰を切ったようにしゃべりだす。
あまり、というか、苦手だ。
「なんだ、違うの? いや、正直ちょっとほっとしたけどね。マシンの台数とか、限りあるんだよねえ。あんまり部員多くっても、使えるマシンがないんじゃあね。それに、なに、あのー、情報科学研? って部活があって」
ぴくり、と反応してしまったかどうか、ちょっと分からないが、なんとなく、声音や口調から、あまりよい類の話ではないような気がした。
ぼくが口を挟むかどうか悩む間もなく、部長氏の後ろから、部員と思しき生徒の声が聞こえてきた。
「あの部ほんと参るっすよね。統合なんかしたらうちで使える部費が減っちゃうじゃないっすか。だいたいさっき来たあの部長、まともに話できないっすもん。こっちがなにいっても、ああ、だの、ふむ、だの、……」
「おう、それくらいにしとけ、っていうかそういうことは部外者の前で言うな。……まあ、そういうわけだから、もし君が見学希望者なんだったら、よそあたったほうがいいんじゃないかな」
「あ、はい」
そういって部長氏はドアを閉めた。
ドアを蹴りつけようかと思った。
思うだけがぼくだった。ぼくの消極性に、半分だけ感謝した。
残り半分の感情は、雨と一緒に流れ去ってしまえばよかったのに。