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指定席の背に
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書き散らしの裏

午前七時四十五分、快速列車はその腹に抱え込んだ乗客を

 午前七時四十五分、快速列車はその腹に抱え込んだ乗客をゆっくりと吐き出す。車内に圧し込まれて二十分。ただただじっと耐えて、ようやく解放されるのがこの駅。
 通勤ラッシュのこの時間、背広の群れはそのほとんどがここで降りる。ここが彼らの働き場なのだろう。

 けど、ぼくの目的地はここじゃない。
 陸橋を渡って向かい側、三番線ホーム。そこで乗り換えて三十分。着いた駅から徒歩五分。それがぼくの通う学校だ。
 もう一ヶ月以上こうやって通学しているけれど、この人混みにはまだ慣れそうもない。疲れた体を引きずって陸橋を渡り終える。
 青色のプラスチックのベンチ。深く腰を下ろし、一息つく。

 ぼくは乗換えまでの五分間、ベンチにもたれて体を休めることにしている。

 理由はふたつ。

 ひとつは単にぼくが怠け性だから。

 鞄から一冊ペーパーバックを取り出し、ぼうっと読む。読みふけるほどの時間はないから、なんとなく目で文字を追うくらいだ。

 ベンチに座って二分弱。

 ふたつめの理由。

 ホームの反対側、四番線に、キイイと金切声を上げて列車が止まる。空気が抜けるような音。背中越しに、乗客たちの乾いた足音が聴こえる。
 改札を目指して陸橋を渡る人々。彼らもまたここで働く人たちなんだろう。やがて降りる客がまばらになると、ドアが閉まり、おもむろに列車が走り出す。

 ふと、ベンチの背もたれの向こう側に人の気配。

 ちらりと横目でその正体を見やる。
 ベンチに腰掛ける後姿しか見えないのだけど。

 耳たぶの高さで切り揃えられた黒い髪。白いうなじ。
 グレーのベスト。華奢な肩。
 白いブラウス。その袖から顔を出して、携帯電話を操作する、小さな手。
 いつもと同じ。

 彼女だ。

 確認したところで、ぼくは顔を前に向ける。

 この一ヶ月、ぼくはこうやって次の電車がやってくるまでの三分間、彼女とただ背中合わせに座ったまま、ぼんやりと過ごしている。

 彼女が誰なのかぼくは知らない。
 いつのことだか正確には分からないけれど、だいたい一ヶ月くらい前だ。
 ぼくがベンチに座っていると、ぼくの反対側に彼女が座った。
 確か内心ぎょっとしたはずだ。

 ぼくならそんなことしない。ほかの席が空いているなら、そっちを選ぶ。
 他人と隣り合ったり、背中合わせになったりする席は選ばない。だって落ち着かない。かといって誰かが隣に座ったり、背中合わせに座ったりしたからといって、席を替えるのも気まずい。
 気にしないように、と思っても、気になるものだ。ぼくはつい後ろのほうを見てしまった。うっかり見とれてしまった。慌てて前を向き直った。彼女は気づかなかったようで、ぼくは胸を撫で下ろした。

 それ以来、彼女はぼくと背中合わせになるように座った。
 彼女が以前からここで乗り換えていたかどうかはぼくには知るべくもないけど、多分、あの日たまたまこのベンチに座っただけなんじゃないかと思っている。
 なのにどうして彼女は毎日このベンチを選ぶのだろう? それも、どうしてわざわざぼくの背中側に座るのだろう?
 興味が沸いても、話しかけるほどの勇気はぼくにはない。
 手元のペーパーバックに目を落として、乗り換え電車がやって来るまでの間をやり過ごすことにした。
 あの日ほど長い三分間はなかったと思う。あの日ほど乗り換え電車がやってきて安心した日はなかったと思う。

 けど、人間は誰でも慣れるもの。
 こうして背中合わせに彼女が座っても、もはやぼくは動じない。彼女だと確認すればあとはいつもどおりペーパーバックを読むだけだ。
 気まずさを覚えることもない。彼女が勝手にぼくの後ろに座っただけなのだ。ぼくが気に病む必要がどこにある?
 だから今日もぼくは手元の文字の羅列を追いつつ、次の電車がやって来るのを待っていた。

 異変に気づいたのは、十ページほどを読んだところだった。

 おかしい。
 ぼくは思わず腕時計を見た。
 こんな短い間に十ページは読めない。
 七時五十五分。
 ぼくが乗るべき電車がやって来るのは、七時五十二分だ。いつもどおりなら。
 時刻表が変わったのだろうか。
 電光掲示板を見る。
 けれども先発は七時五十二分発の各駅停車で間違いない。

 遅れてる?

 その疑問には、ほどなくして入った駅員からのアナウンスが答えた。

《ただいま、線路内に人が立ち入ったとの情報があったため、上下線ともに運転を見合わせております──》

 思わずため息をつく。
 遅刻が確定した。こういうときは連絡したほうがいいのだろうか。学校の電話番号は知らない。生徒手帳なんて持ち歩いていない。
 結局ぼくは開き直ることにした。連絡してもしなくても遅刻には変わりないのだし、それだったらこの時間を有効活用したほうがいい。
 人身事故なら一時間は復旧しないだろう。読みかけのペーパーバックを読み終えるいいチャンスだ。そうすると帰りに読む分がなくなるから、本屋にでも寄って帰ろうか。そんなことを考えつつ、ぼくは本を読むことにした。

 ページをめくる音。

 どれくらい経ったろうか。

「ねえ」

 不意に背中越しに声が聞こえる。
 澄んだ声。想像していたよりも、ちょっとだけ芯のある声。

「ねえってば」
「え、ああ、ぼく?」
「このホームにほかに誰がいるの?」

 少なくともぼくの視界には誰もいない。

「ぼくになに?」
「いつもそこ座ってるよね」

 心なしか、険のある声。
 ちょっとだけむっとして、ぼくは逆に尋ね返す。

「それはきみもそうだと思うけど」
「ここは去年からずっと私の指定席。後から来て座ったのそっちじゃない」

 と言われても、ぼくが座り始めた頃には彼女はいなかったし、去年から座っていたといわれてもそんなこと知りようがない。

「このホームにはいつもぼくが先に来てるんだから、いやなんだったらきみが別の場所に座ればいいだけじゃないか」
「耳ついてるの? さっき言ったでしょ。ここは私の指定席なの」

 口が悪い子だな。最初の印象はとうに吹き飛んでいたし、それに満員電車に揺られて精神的にも疲れていて、ちょっと苛だっていたかもしれない。ぼくも、少し棘のある物言いになってしまう。

「じゃあ、ぼくがどこか別の場所に座ればいいの?」

 すると彼女は途端うろたえたように、

「べ、別にそういうつもりじゃなくて」

 などと言う。

「だったらどうしてほしいの?」

 立場が変わって気が大きくなったぼくは、問い詰めるように言う。

「ううう、うう……」

 彼女は答えない。

「そっちから文句つけてきたんでしょ。ねえ」
「あーもう!」

 不意にわめくと、後ろで彼女が立ち上がる気配がして、ぼくは振り返る。

 彼女の顔を見て、ぼくは胸を突かれた。

 目尻に浮かぶ涙のせいか。紅く染まった頬のせいか。多分どっちもだと思う。けれども、何より、それがぼくにとっては初めて見た彼女の顔だった。予想していたよりも、ずっと感情豊かで、けれども予想していたよりも──。

 ぼくの思考は彼女の言葉に遮られる。

「電車来なくて手持ち無沙汰だったのよ! 話相手になってくれるかなって、それで声掛けようと思ったのよ! でも何話していいか分からないじゃない!」

 止まっているのはぼくの電車だけじゃない。
 彼女の言う手持ち無沙汰が本当かどうか知らない。携帯電話があればメールでもインターネットでも暇は潰せる。ぼくが本を持ち歩いているように、彼女もそうやって待ち時間を過ごしているんじゃないか。

 けれども、彼女はあえてぼくに話しかけてきた。ぼくがいつだったかそうしようとしてもできなかったことを、多分彼女もできなかった。今日は滅多にないチャンスに違いない。分かってはいたけど、ぼくにはそうするだけの勇気はなかった。

 でも、ホームにはぼくと彼女だけだ。

「ごめん」

 ぼくは立ち上がると、ゆっくり頭を下げる。

「別に、謝ってほしいとか、そんなんじゃなくて……ただ話相手になってほしかっただけで……」

 さっきとは打って変わって弱気な彼女だけど、それでぼくの頭も急速に冷えていく。残ったのは悔恨。

「ううん、ちょっと言い過ぎたと思ってる」

 そっぽを向く。唇をほんの少し尖らせて。

「それは、あたしもだし」

 ぼくが想像した彼女は、物静かで、落ち着いていて、クールで。そんな子だったのだけど、今目の前にいる彼女は、想像とはぜんぜん違ったけど。
 今ぼくは、目の前にいる彼女と話をしてみたいと思っている。

「じゃあ、お互い様ってことで」
「……うん」

 背もたれを抱えるように、後ろ向きにベンチに腰掛ける。見上げるように彼女を見て、尋ねてみる。

「去年から座ってるってことは、二年生?」
「うん、そっちは今年入学?」
「ちょうど一ヶ月前に。じゃあ、先輩ってことになるのかな。あ、いや、敬語のほうが」「いいよ、いまさら」

 そう言って彼女は笑う。それから、尋ねる。

「最初、どう思った?」
「どうって」
「あたしが後ろに座ったとき」
「ああ」

 思ったとおり素直に答えていいものか考えあぐねていると、彼女のほうが先に口を開いた。

「あたしはね、きみがそこ座ってるのを見たとき、正直むっとしたの。そこにきみが座ったら、いつもの席に座れないじゃないって」
「でも、座ったよね」
「うん。ここに座ったら、次から場所変えるかなって思ったんだよね」
「結局ぼくは変えなかった」
「そうだね。どうして?」
「それは……」

 ぼくは答えられない。

 彼女はじっとぼくの顔を見る。
 そして、ぼくの言葉を待っている。

 ぼくはこれまで諦めと慣れで生きてきた。多分これからもそうだろう。

「最初きみが座ったとき、ぼくは確かぎょっとしたと思う。ほかに席があるのに、なんで?って思った。それで……多分興味が沸いたんだと思う」
「興味? あたしに?」

 ゆっくり頷く。

「ふうん……」
「それに、すぐに慣れちゃったんだ。きみと背中合わせに座るのが当たり前っていうか。いやじゃなかったし、というより……ああ、いや、えっと」

 何を言っているんだぼくは。
 思わず頭を抱えていると、くすっと笑みがこぼれるのが聴こえた。
 おそるおそる面を上げると、彼女はこんなことを言うのだ。

「きみ、かわいいとこあるじゃん」
「なっ」

 顔が熱くなるのが分かる。思わず俯き目を逸らす。こんな顔見せられない。
 けれども彼女はぼくのことなどお構いなしに続ける。

「あたしもね、イヤじゃなかったよ。じゃなかったら、声なんてかけてない。そりゃあ、最初は対抗意識だとか、そういうのだったけど。今は違う。話してみたら、いいやつみたいだし」

 ちらりと横目で彼女の顔を覗き見ると、顔を横に向けている。
 その頬は心なしか紅い。
 照れているのだろう。
 言われたぼくが一番恥ずかしい。

「……名前」

 だからそう言うのが精一杯だった。

「え?」

 きょとんとする彼女に、もう一度告げる。

「だから、きみの名前」

 彼女はくすりと笑うと、胸に手を当て、

「あたしは──」

 彼女の後ろを列車が通り抜けていく。
 轟音がその声を掻き消す。

「……もう! こんなときに限って」

 振り向き、不平を言う。
 そんな様子にぼくは思わず噴出してしまう。

「な、なによ……」
「いや、べつに」

 笑って誤魔化すぼく。彼女は不満げに唇を尖らせる。

「それよりさ、電車、動き出したのかな」
「アナウンスってあった?」
「なかったと思う。動いてる区間があるのかな」
「遅れてたのが今来たとか」
「かも」

 なんて話をしていたら、ちょうどアナウンスが入る。

《──安全を確保できましたので、まもなく運転を再開いたします。大変ご迷惑をお掛けしております──》

「もう再開してるじゃん」

 本当にそう思う。

「でもそっか、もうじきに電車来るんだね」

 結局名前も聞きそびれている。
 名残惜しそうにしたのがもしかしたら顔に出たかもしれない。

「携帯ある?」

 彼女はそう言って携帯電話を取り出す。

「本当はこういうの、男の子の方から聞くものだと思うんだけどね」

 おずおずと携帯電話を取り出すと、さっとぼくの手から取って、手早くボタンを押していく。

「はい。あたしの番号とメールアドレス、登録しといたから」
「え……」
「毎日会えるって行っても、三分だけだし。きみのこと、まだまだぜんぜん知らないんだもの」
「え、あ、え?」
「ちょっとしっかりしてよね」
「あいたっ」

 ぼくの額を指で弾く。

「もっと話したい。きみは、そうじゃないの?」

 たった三分だ。

 彼女と一緒にいた時間は、一日にたった三分だけ。

 けれども、一ヶ月間、平日の間は毎日、彼女とこうして一緒に過ごしてきた。ただ何も言わず、お互いに背中合わせでただ座っているだけだけど。
 同じ時間を共有しているという事実はここにある。たった三分でも、累計二十日、およそ一時間、ずっと一緒の時間を共有していることになる。

 もちろん今日のこの時間だけでも、一時間くらい一緒にいることになるのだけど。
 ぼくにとって彼女は通りすがりの女子高生その一なんかじゃない、ちょっとだけ特別な他人なのだ。意識しないわけがない。興味がないわけがない。

 そして自惚れでなければ、それはきっと彼女もそうなのだ。

「……うん」

 ぼくは頷いて、一言ずつはっきりと、逸る気持ちを抑えて言う。

「ぼくも、きみともっと話したい」
「ん。じゃあ、これからは友達。その先は──」

 甲高い音を軋ませて列車がホームに着く。

「え?」

 そのとき彼女がなんと言ったのか。

「じゃ、電車来たから!」

 手を挙げて去る彼女に、ぼくはぼうっと立ったまま、ただ手を振って応じるだけ。
 ぼくの後ろでも列車が止まる音。振り向き、乗り込んだところで、警告音とともに彼女の乗った列車のドアが閉まった。
 そしてゆっくり走り出す。
 彼女はぼくを見て、いたずらっぽく微笑み、携帯電話を掲げて指差す。

「あ……」

 メールを受信。
 こちらのドアも閉じる。
 一時間遅れの通学電車が走り出す。

『明日もこんな調子だったらまたデコピンだから覚悟するよーに!』

 思わず苦笑がこぼれる。
 それから、思い出す。

 あのとき、彼女はなんて言ったのか──。

 自信はないけれど、多分。

『その先は、きみ次第、かな』

 今日の授業は、とても頭に入りそうにない。

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