「古府さん、大丈夫?」
「比奈ちゃん……わたしの友達の比奈ちゃん……」
口裂け女の首を抱えたままの降瑠の手を引き、夕闇の住宅街を走る。
降瑠は、さっきからずっと、淑緒の言葉にまるで答えることなく、囈言のように「比奈ちゃん……」と繰り返すばかりだ。淑緒は考える。この首の主が日々井比奈だとして、旧輿水市街地で噂されていた口裂け女の正体は、結局誰だったのだろう。
降瑠の顔をちらりと見遣る。
耳元まで大きく裂けた口。
口裂け女の外見そのものだ。その腕に抱きかかえた比奈の首もまた、口が大きく裂けている。
どちらが噂の原因になっているのかは分からない。比奈だったかもしれないし、降瑠だったかもしれない。あるいは、二人とも。
比奈は、自分で噂を流していた。
それだけではなかったのかもしれない。
降瑠に聞けば、何か分かるのかもしれない。
「比奈ちゃん……またひとりぼっちになっちゃうね」
だが、降瑠は独り事のように、ぽつりぽつりと漏らすばかりだ。
彼女は人面犬を見たと言っていた。
比奈の言うとおり、降瑠が本当に何も知らなかったのなら、ただ人面犬を見た。それを語った。それだけの話だ。でも、違う。彼女は知っていた。
自分の口が奪われたことを。知っていてなお、彼女は比奈の友達でいた。もし、彼女が、比奈の正体に気付いていたとしたら? 彼女にまつわる噂を流布しようとしただろうか。分からない。
聞けば、分かるかもしれない。
「古府さん」
「飼ってた犬が死んで、友達もいなくて」
彼女は答えない。独白めいた呟きを漏らすだけだ。
「比奈ちゃんがわたしを呼び出して」
……ちょっと、待った。
今、なんて言った?
呼び出して?
「古府さん、今」
だが、降瑠は答えない。
「その比奈ちゃんも、今はもうこんなふうになっちゃった」
唇を撫でる。愛おしそうに。
「わたしもひとりぼっち」
周りに誰もいない。自分たち以外に誰もいない。
「ううん。わたしもそっち行くからね。ひとりぼっちになんか、させないからね」
本当に、比奈と二人っきりでいるように。
淑緒がここにいることに、まるっきり気付いていないように。
淑緒は錯覚していた。
「だから、その前に」
だから。
そのとき何が起きたのか分からなかった。
脇腹が熱い。体の内側から焼けるようだ。
何かが零れ落ちていくのが分かる。力? 命? そんな抽象的なものじゃない。手で腹を抑える。もっと確かなもの。赤くて、熱い……これは、血だ。
くずおれる。見上げる。
ナイフを手にした降瑠がそこにいた。
刃先から赤く滴っているのは、血。
そうだ。彼女が口裂け女の首を撥ねたのだ。
だが、おかしい。どうやってこの小さなナイフで、あの首を撥ねることができたというのだろうか。いや、おかしくはない。ここは虚時間。あらゆる事象が、作り話で塗り替えられる、噂に満ちた異世界だ……。
思考力が失われていく。
視界が狭まり、くらやみに閉ざされる。
疾駆。あのんとの彼我の距離五メートルを一瞬のうちに詰める。ゴウ、という風が弾ける音を立て、振り下ろされる鉈。鈍色の斬光が、あのんに迫る。
言葉を振り上げ。
刃が擦れ合って、キリキリと耳障りなざらついた音を響かせる。
今のは明らかに振り遅れていた。
身体を逸らすことで、なんとか鉈の勢いを殺す。
あのんは、苦戦を強いられていた。
「動物の低級霊にしては、刀が通らないのは不思議に思っていたわ」
言霊が効かないのは、淑緒の能力が干渉しているせいだ。あのんはそう思い込んでいた。
だが、違った。
「そうじゃなかったのね。そもそも、低級霊なんかじゃなかった」
「わらわをそこな物怪風情と同じと申すか。うつけよのう。うつけもうつけ。笑える話よのう」
大きく裂けた、獣の口。深い毛に覆われた耳。
「あなた、犬神ね」
犬神と呼ばれた獣頭の異形は、何も言わずに、ただ口を大きく歪めるのみ。
おそらくは、嗤っているのだろう。
「彼女、犬憑きだったのね。気付くべきだったわ」
「わらわは、あの小娘の望みを叶えてやったまで。わらわから取り憑いたのとちゃう」
犬神の儀式を……日々井比奈が? だがその気配は、昨日今日犬神化したような俄なものでもない。少なくとも、数年単位。十年経っているかもしれない。
犬憑きになって十年。
だとすれば、今まで怪承にならなかったことのほうが不思議になる。
「悠長に考えとる場合かえ?」
鉈が迅る。
見えていたはずだった。
が、言葉を振るう左手の反応は、一瞬遅れた。また遅れたのだ。何故か。左手だからだ。
「その右手、使われへんのかえ? さっきから左手しか使とらんの、なしてやろな思うたけん、ちゃうの。使わへんのやない、使われへんのやろ?」
あのんは答えない。
右腕に血が滲む。昨日、口裂け女に斬られたところだ。
淑緒には、斬られていないと言った。言霊の力で誤魔化したのだ。幸い、淑緒もそれを信じた。そして、淑緒がその言葉を信じれば、傷はなかったことになる。
もちろん、そのときはまだ、あのんも淑緒の能力を分かっていなかった。傷がなかったことにされて初めて推測を立てられたにすぎない。
そして淑緒の力が及ばないところで、それを指摘されれば。一度はなかったことにされたはずの事象は、自身の抱いた疑念によって、容易く暴き出される。
「なんや、怪我しよっとん。お気の毒やの」
右手を滴る血。
傷口が熱を帯びて、ジリジリと焦げ付くような痛みが腕に響く。
「ッ……」
「悪く思わんたってや。わらわがこの世に存在するためにはの。信仰が必要ぞ」
鉈を振り翳す。
受けようと左手の言葉を構える。
が、右腕の痛みが響き、よろめく。
その隙を逃す犬神ではなかった。
振り下ろされる。
その刹那。
犬神とあのんの間に割って入るように、黒い風が疾った。ガインと鈍い金属音を響かせ、鋼の芯が鉈を弾き返し、続けざまの打擲。
犬神の胴に、確かな一撃が叩き込まれる。
「ぐフっ——!!」
手にしているのは、長さ六十センチほどの、護身用のロッド。
それを握る手は、真っ赤に染まっている。
「淑緒……!?」
右脇腹から血を流しながら、淑緒がそこに立っていた。
「その傷、大丈夫そうには見えないのだけど」
平静を装おうとして、その実、失敗して、震えを隠せないまま、あのんは言う。
「自分を、信じてみたんだ」
だが、淑緒は動じない。
「虚時間で起こることを、受け入れる。そうしたら、どんなに重傷を負ったとしても、平気でいられるかもしれない」
まるで血なんて流れていないように。
まるで痛みなんて感じていないように。
「そう思ったら、なんともなかったんだ。血は出ている。でも平気だ。痛みはある。でも平気だ。なんともない」
もう一度、繰り返す。
「そう思ったら、なんともなかったんだ」
言葉を口にすることで、それが本当なのだと、自分に思い込ませる。要は自己暗示だ。ひょっとすると、これも言霊なのかもしれない。
「なんともないって、でもその血……」
「〈恒常心〉って名前、ちょっとこじらせた感じで、あんまり好きじゃなかったけど」
あのんが「好きになれるといいわね」と言ったから。
「好きになってみようって思ったんだよ」
だから、淑緒は今ここに立っている。
自己を肯定することで得られる、揺るがない強い力。
恒常心を宿して。
「その深傷を負うて歩き回れるとは、けったいな人間よの。本当に人間かえ?」
淑緒が振り向いた先にあったのは、犬の頭をした異形の姿。
「その頭……」
見覚えがある。
昨日の夕方。虚時間に入る前。
あの聡明な目をした、老犬の瞳だ。深い知性を感じた。
それもそのはず。ただの犬ではなかったのだ。
「犬神よ」
傍らに立って、あのんが言う。
「古府さんが、言ってたよ。日々井さんは犬を飼ってたって。飼ってるじゃないんだって。飼ってた犬は死んだって、さっき聞いて気付いた。じゃあ、俺が昨日見た犬は何だったんだろう? その答えが、こいつなんだな」
「淑緒が見たのは、現時間での仮初の姿ね。歳を経た犬神は、ある程度自分の姿を自由にできる」
「ちぃとずつこやつの身体を乗っ取ってやろうと思うとったのにの。降瑠とかいう小娘めが、余計なことしよんの、敵わんわ」
その降瑠が、口裂け女の噂という信仰を広めていたことを犬神は知らないらしい。
だとすれば、降瑠は……。
「飼っていた犬が死んで犬神が現れた。日々井比奈は儀式をするつもりではなかったのかもしれないわね」
「儀式?」
「ただの飼い犬が死んでこんなふうになるわけないものね。何かしらの手順で、儀式が発動した。生き返らせようとした、とか」
犬神は、答えない。口を歪めて嗤うだけだ。
「どないやろな? ほな、無駄話はこの辺にしとこか」
会話を打ち切るように、鉈を素振り、つかつかと歩み寄る犬神。
互いの間合いに入るまで、五メートル。
この距離は、怪承の身体能力なら一瞬で詰められる。
淑緒は、ロッドを構えて腰を低く落とし、犬神の攻勢に備える。
「計画が狂ってもうて、みんな台無しや。その落とし前つけてもらわんと困るさかいな?」
「いや。もう決着はほとんどついてるんだ」
「ほう、戯けたことを申すのう?」
答えることなく、犬神へ向かって飛び出し、ロッドを振り抜く。
鉈で受け止めるまでもなく、犬神は身を逸らすだけでそれを躱す。振り下ろす。打ち付ける。躱す。犬神のような高位の存在にとって、淑緒の攻撃など児戯に等しい。
「なんや、そないとろいのんが、当たるとでも思うとるんかえ?」
「あなたの相手は、淑緒だけではないのよ」
言葉とともに、淑緒がバックステップ。入れ替わるようにあのんが言葉を振り抜く。一閃。
振り下ろされる鋭い一刀。横薙ぎに振るわれる鉈。
打ち合う。耳障りな残響音。
そこへ、無防備な左脇を狙い淑緒がロッドを叩き込む。が、身をよじっただけで、淑緒の一撃は空を切る。
「二人がかりでも同じことよ」
「それは、どうかしらね」
あのんは、言葉を左手から右手へと持ち替えて、剣先を犬神へと向ける。
右手の傷も、血も、痕跡さえなくなっていた。
「淑緒がいると、なかったことにされるのね」
「あのんは怪我してないって言ってたじゃない。だったら、怪我なんてしてないんだよ。俺はあのんを信じる」
「おもろないの」
不機嫌さを顕わに、犬歯を剥き出しにして唸り声を上げる。〈影〉が集まってくる。
「眷属なんぞ呼ばんでも、小童と小娘ごとき、と思うとったけんの」
集まった〈影〉は、形を変え、くらやみの色をしたけものの姿を取る。
「気が変わったわ。潰す」
けものが走り出す。が。
「低位の動物の霊なんて、わたしの言葉の錆にすらならないわ」
その場から動くことなく、腕を振っただけで、飛び掛るけものを切り捨てる。
背中をあのんに任せ、淑緒は跳躍するように、一気に駆け出す。
「馬鹿の一つ覚えかえ。小童では、わらわに傷ひとつつけられせん」
大振りのロッドの一撃を、半身逸らして犬神は躱す。
淑緒の背ががら空きになる。その隙を、逃すことなく。黒鈍の刃が振り下ろされ。
背中へと突き刺さる。
熱した鉄芯を体を貫いたような、激痛。
突き刺した鉈で、肉を抉るように、捻り回す。
「ほうれ、痛かろ、痛かろ」
脂汗を額に浮かべ。
苦痛に顔を歪めながら。淑緒は不敵に笑う。そして告げる。
「チェックメイトだ」
訝しがる間を与えずに、口裂け女の華奢な足にしがみつく。胴体は比奈のものだ。いくら強靭な膂力があろうと、それは、実体の伴わない、虚の力。
「こやつ、やめい、離れよ! ええいわらわから離れんか!」
ただの女子学生の足に過ぎないと思えば、いくら犬神が暴れても。淑緒を振り解くことはできない。
鉈を何度も背中に突き立てる。
だが、淑緒は離れない。しがみついたまま、離れない。
離れないで、叫ぶ。
「あのん!!」
「ええ」
狂ったように鉈を突き立てる犬神の、その間合いに。
果たして、あのんは立っていた。
「人の身にあらざる異形の頭、今言葉以て断ち切らん」
力強い言葉。言霊の力を、淑緒は確かに感じ取る。
淑緒が認識した言霊は、世界の理として機能する。
人間の胴体に、犬の首は生えない。
「あるべき姿へと帰れ!」
裂帛の気勢。風が迅る。言葉が、犬神の首めがけ放たれる。
鉈を振りかぶるが、間に合わない。
だから、犬神は。
左腕で淑緒を掴み上げ、盾にする。
「あのん!!」
だが、淑緒は何の躊躇いもなく、叫ぶ。
俺ごと斬れ。
名を呼ばれただけで違わずその意図を読み取ったあのんは、無慈悲に。
振り抜く。
一閃。
「嘘やん、な……」
あのんの振るった刀は、淑緒の背中を確かに断ち切って、勢いを殺されながらも。
あのんの振るった言葉は、犬神の首まで、届いた。
「こない、あほな話……ありえ……」
西の空に太陽が沈み切る。
くらやみの路上に、年老いた犬の首が、転がり落ちて。
世界は夜に包まれる。